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論文

 本州の北端に手斧の形状で突出しているのが下北半島である。ここは江戸中期に東北を旅行した菅江真澄の手記にも、松前から航路で北西の奥戸の集落に到着して半島を一周した様子が記録されているし、江戸末期に奥州から蝦夷を探索した探険家松浦武四郎もわざわざ『東奥沿海日誌』一冊を上梓している。このような記録によっても相当に神秘的雰囲気のある場所であったが、現在でも日本の秘所に相応しい場所である。

 幕末に来日したイギリスの商人かつ博物学者トーマス・ライト・ブラキストンが津軽海峡にブラキストン・ラインを設定したように、二万年前のウルム氷期が終了して以後、津軽海峡は蝦夷と本州を隔離しており、その結果、下北半島には日本ザルの北限が象徴するように特殊な動物や植物の生態が集積しているという特徴がある。しかし、下北半島の重要な特徴はやはり恐山信仰に象徴される民俗文化の存在である。

 すでに八六二年に最澄の弟子である慈覚大師が東北地方を巡回したときに、自身で地蔵尊像を彫刻して安置したのが恐山の開山の由来であり、以後、恐山金剛念寺という名称で天台行者の道場として発展してきた。一五世紀中期には一旦破壊されて仏像や寺宝を喪失したが、一六世紀に再建され、寺号も釜臥山菩提寺に改号し、二○以上の建物が建立された堂々たる寺院として繁栄してきた。

 境内の敷地一帯は、現在でもあちこちに硫黄の噴気が噴出している荒涼たる光景であるし、隣接する周囲一二kmの火口原湖である宇曽利湖は強酸性水のため、ほとんど魚類が生息できない独特の碧色をしており、三大霊場に相応しい秘境と表現される環境である。そして死者の口寄せをする有名なイタコの存在は、この本州最果ての寺院を一層神秘な存在にしている。

 この恐山から真西に直線距離で二五kmの海岸に、下北半島のもうひとつの名所である仏ケ浦がある。ここは凝灰岩質の急峻な絶壁が長年の波浪により侵食され、それぞれが観音岩・十三仏・如来首・天竜岩・一ツ仏・天蓋岩などと名付けられている奇岩怪石が連続している海岸である。この海岸はかつては仏宇宇陀という名称で、恐山とともに参詣の対象であり、険峻な山道を踏破して多数の信者が巡拝した聖地であった。

 数十年前に一度来訪したことがあるが、今回はカヌーで海側から仏ケ浦に参拝しようということで岩手のカヌー仲間とともに訪問した。下北半島の付根にある人口五万人強の中心都市むつから自家用車で出発し、陸奥湾越しに八甲田山を遠望しながら半島の南側を通過し、途中から右折してかつては木材搬出のための森林軌道が敷設されていた川内川沿いの山中を北上し、西側の海岸にある漁村福浦に到着した。

 翌日早朝、福浦の南側にある牛滝という漁港からカヌーで出発して北上すると、すぐに仏ケ浦の絶景が出現する。前日は夕日を反映する奇岩を浜辺から間近に眺望し、これも素晴らしい光景であったが、約三kmの区間に次々と連続する奇岩を海上から一望するのはそれ以上のものであり、まさに約一五○年前に松浦が『東奥沿岸日誌』に「その美しきこと紙筆に尽くしがたし」と絶賛した光景である。

 ただ残念なことは、その絶景の海岸に堅固なコンクリートの桟橋が建設されていたことである。三○年前には小舟を接近させてもらって浜辺に飛降りたのであるが、現在では立派な遊覧専用の船舶で旅客を輸送するため、施設が建設されてしまった。これは老人でも気軽に絶景を鑑賞できるということでは結構であるが、有難さも中位になってしまうということでもある。世間には苦労の結果でしか得難いものがあることも必要である。

 仏ケ浦を通過して海上を北上していくとともに断崖も低目になり、それに呼応して次々と漁村が出現する。しかし、この一帯は日本でも有数の僻地であり、現在でこそ半島を一周する道路が整備されバスの運行もあるものの、かつては崖沿いの断続した道路しかない地域で、海上輸送が主役であった。そのような場所にも相当以前から人間が生活していたということを海上から遠望すると、人間の発展する意欲というものを実感できる。

 崖下のわずかな土地に集落がある風景は日本各地で見慣れたものであるが、下北半島の西側の海岸をカヌーで北上していくと、約三○kmの彼方には駒ケ岳を背景にした松前半島と亀田半島、左手約一○kmの彼方には津軽半島の山々がシルエットとなり、退屈することがない。この人為と自然との絶妙の対比を観察しながら海上を漕破していくことも、シーカヤックによる移動の快楽である。





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