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論文

 北海道は巨大なエイのような形状をしているが、その尻尾に相当する渡島半島を除外した胴体の部分では、北海道最高峰である標高2290mの大雪山を頂点とする石狩山地を中心として、北見山地、天塩山地、夕張山地、日高山脈、白糠丘陵などの高地が四方に展開していると同時に、石狩山地を源流とする天塩川、石狩川、十勝川、常呂川など日本有数の河川も四方に流出している。

 そのような河川の一本が一級河川の湧別川である。大雪山系の北東山麓から出発した二本の源流は上流の白滝村で合流して一本となり、さらに途中の遠軽町で南側から生田原川が合流し、最後はサロマ湖の北側でオホーツク海に流入する。本流の延長90km弱の河川であるが、その両側には明治時代になってから開拓される以前の【北海道の】面影を髣髴とさせる風景が現在でも色濃く維持されている。

 源流部分の白滝には総量4億トンと推定される膨大な黒曜石の露頭がある。約2万年以前の石器時代には、道内のみならず、サハリンを経由してシベリア一帯に石器の原料を供給しており、その時代の湧別川は交通の要路であった。それ以後、流域はアイヌ民族が生活し、自然は手付かずのまま維持されてきた。ユウ・ベツという名称は川沿いにある【いくつかの】温泉が象徴するように、温泉の河川というアイヌの言葉に由来するといわれる。

 江戸中期から和人の入植が開始され、河口での漁業から内陸での農業へと発展し、その開墾の過程で伐採された木材を運搬する手段も湧別川であった。明治時代になると、原生の森林は鉄道の枕木や道内に建設された製紙工場の原料として大量に伐採され、さらに重要な物流の路線として河川が利用されるようになった。当時のわずかな写真には、道内のどこにも存在していた鬱蒼とした森林の面影が記録されている。

 寒冷の地域であるうえに、上流から中流にかけては川幅のない急流であるため、カヌーをする人々は数少ないが、上流と下流を一回ずつカヌーで下降した経験がある。白滝村内の上流を下降したのは真夏であったため、水量が十分ではなく、何度かカヌーを運搬する必要があったが、その両側は、時々、上部を横断する鉄橋などを例外として、原生の河川の様子を想像させるような景観の連続であった。

 それと比較すると遠軽から湧別にかけての下流は大半の部分が河川改修されており、コンクリートの護岸やテトラポットの投入が連続している。しかし、これをカヌーの視点から非難するわけにはいかない。上流の森林の伐採も影響し、明治以来、何度も洪水による水害が発生し、流域の住民と田畑を保護するために必要な作業であった。そのような努力の結果、1979年の氾濫以来、河川は安定して維持されている。

 湧別川の自然を満喫するにはカヌー以外の方法がある。毎年二月最後の日曜に開催される「湧別原野オホーツク100kmクロスカントリースキー大会」への参加である。今年で18回目になる雄大なスキー大会は大雪山系の北麓斜面から出発して上湧別町の公園まで100kmの距離をスキーで走行するのであるが、その経路のすべてが湧別川沿いで、上流では凍結した水面を、下流では荒涼とした川面の景観を満喫することができる。

 筆者も過去11年間出場しているが、零下20℃にもなる気温のなか、オホーツク海側からの寒風に抵抗しながら、早朝から夕方まで走行することは苦闘ではあるが、その爽快な気分は北海道の大自然しか提供できないものである。これは走行する人間も大変であるが、2000人近い人々が参加する大会の運営も大変な努力を必要とし、白滝村、丸瀬布町、遠軽町、上湧別町の人々の熱意によって実現している貴重な行事である。

 人口が減少し、主要な産業である公共事業も削減されていく過疎の地域で、地域の発展を目指して実施されているのが、このような行事であるが、それ以外にも様々な活動が流域で展開されている。上流の人口1200人弱の白滝村の建設会社の社長は、悠遊宿という宿泊施設を建設し、そこで悠遊塾という組織を運営して、魚釣、登山、乗馬、ラフティングなどを提供して地域に人々が訪問する努力をしている。

 中流の丸瀬布町の建設会社の社長は冬期に豪雪のため閉鎖されている林道を利用してクロスカントリースキー大会を開催すると同時に、そこへ参加する人々に著名な識者の講演を提供している。下流の上湧別町の建設会社の社長は本社の建物の一部を無料の喫茶店として開放し、住民が交流する場所を提供している。どれもが一部ではあるが、流域の人々の熱意を湧別川という一本の河川が一体として連結している活動である。





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