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論文

 最近、生命圏域とか生命地域という言葉が次第に紹介されるようになってきた。英語のバイオリージョンを翻訳したものである。現行の県域や市町村域などの行政圏域は政治や行政の便宜によって区切られた圏域であるが、生命圏域は気候・地形などの自然条件、植物・動物なので生態条件、歴史・文化などの社会条件が相互に共通している範囲を一体の圏域として維持していこうという発想である。

 甲府盆地や人吉盆地のような地域は高山が四周にあり、かつては外部との交通が不便であったため、独自の文化を共有する一体の地域である。四国の四万十川や三重の宮川の流域は両側が急峻な山地であり、交流は川沿いを中心にしていたため、上流から下流までの地域は共通の自然や文化を保有し、一体という意識が強固である。地域環境や固有文化への関心が向上するとともに、それらを共有する生命圏域が注目されてきたのである。

 北海道内には多数の河川があるが、最長が日本第二の延長と流域面積をもつ石狩川、第二が日本第四の延長をもつ天塩川である。この天塩川は大雪山系の北側に位置する標高一五五八mの天塩岳を源流として北上し、途中で名寄盆地の中央を縦断、さらに天塩山地と宗谷丘陵の隙間を通過、最後は西向きになって天塩平野から日本海側に流出している。幹川の延長が二五六km、流域面積が五五九○平方kmの大河である。

 この流域は源流の朝日町から河口の天塩町まで一三の行政区域で構成されているが、二○○二年七月二○日から四日をかけて天塩川の中流から河口まで約一六○kmをカヌーで下降する「ダウン・ザ・テッシ・オ・ペッ・スペシャル」という行事が開催されたことを契機にして、流域全体を「天塩国」と命名し、パスポートを発行したり、新聞を発行したりしている。まさに生命圏域を実現したのである。

 本年五月、この行事を中心になって主宰している酒向勤氏に案内していただき、中流の音威子府から中川までの三○kmほどをカヌーで下降した。前出の「テッシ・オ・ペッ」という名前はアイヌの言葉で「簗の多い川」を意味するが、それは所々に河川を横切るように岩礁が露出していることに由来する。これはカヌーにとっては厄介な存在であるが、今回は雪解け時期の豊富な水量のため、ほとんどのテッシは問題にならなかった。

 ところが問題は河口から谷間を通過してくる強風で、水流は相当な速度であるにもかかわらず、なかなかカヌーが進行しない。昨年の行事では、参加した二五○艇ほどのカヌーのうち数十のカナディアン・カヌーが強風のために転覆したということである。筆者もテレビジョン番組の撮影のため、一部区間でカナディアン・カヌーを一人で操船したが、まともに風下にカヌーを進行させることさえ困難であり、昨年の状況が十分に想像できた。

 その強風はともかく、中流でも川幅が二○○mから三○○mになる大河の左側に天塩山地、右側に北見山地、そして前方に宗谷丘陵の山々という景観は得難いものである。途中に、江戸末期から明治初期にかけて蝦夷を何度か探査した探検家松浦武四郎が立寄ったという標識が建立されている場所があるが、現在から約一五○年前の景観を想像すると、この景観でさえ色褪せたものになるが、そこまで要求するのは贅沢というものである。

 河口から二○km付近になると両側は広大な湿原サロベツ原野になる。両側の見渡すかぎりの葦原の前方には秀峰利尻富士が遠望でき、夕暮のときなどは、このような景観が存在していることに心底感謝するような気分になる。しかし、以前にも報告したように、この原野も開発が進行し、その影響かどうかは証明できないが、サロベツ原野の名産である手塩のシジミが激減するという事態も発生している。

 河口の天塩町内に、かつての役場であった煉瓦建築を転用した天塩川歴史資料館があるが、その玄関に木造帆船の模型が展示してある。この明治後期に建造された四○石積の帆船は、河口から約一八○km上流の士別まで様々な荷物を積載して往復していた。これは当時の日本で最長の河川航路であったが、この帆船は、一本の河川がモノやヒトを往復させることによって、文化を共有する生命圏域を形成していた名残である。

 札幌にある北海道文書館の壁面に一枚の巨大な地図が掲載されている。探検家松浦武四郎が十九世紀中頃に制作した蝦夷全域の地図の複製である。そこには道内の無数の河川が克明に記録されているが、すべてが悠々と蛇行しているとともに、どこにも行政区画はない。もちろん、この状態に回帰することは無理であるが、かつての自然を認識することによって、今後の地域の目指すべき方向を検討する重要な資料である。





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