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論文

 古平のトンネル崩落という悲惨な事故で有名になってしまった積丹半島であるが、ここは現在でも数少ない日本の秘境である。後志火山帯域が北西の日本海側に突出し、一二○○米級の山々が連続する半島は火成岩類を中心とする第三紀層で構成されているが、その山脈が長年の海食によって切立った断崖の連続になるとともに脆弱な地質となり、しばらく以前までは海側からしか接近できない場所が多数ある難所であった。

 積丹はアイヌの言葉で夏季の場所を意味するシクコタンに由来するといわれるが、その言葉のように、夏季には清涼な潮風が充満した極楽のような場所である。しかし、冬季になると、一転して寒風と吹雪が支配する荒涼とした場所に変貌する。トンネル崩落事故の現場からのテレビジョン中継画面が地獄のような光景を伝送していたのは、その事故の悲惨さのせいだけではなく、環境自体の過酷さを率直に表現していた結果でもある。

 しかし、神様は過酷に見合うだけの恩恵ももたらしてくれていた。海流が衝突する沖合は絶好の漁場となり、明治時代にはニシンの膨大な収穫で海岸は活況となり、小樽や江差などとは比較できないものの、積丹半島にも何軒かのニシン御殿が建設されるほどの豊漁であった。しかし、幸福は永続せず、昭和初期になって突然のようにニシンが消滅するとともに人口も一気に減少し、再度、静寂な海岸に回帰したのが現在の積丹半島である。

 カヌーツアーに最適な夏季、積丹半島は西風が卓越するため、東側がカヌーで航行する場所となる。現在では寒村と表現するのが適切な集落でしかないが、東側の中心はかつてのニシン漁業の拠点であった美国である。この漁港の片隅から出発すると、眼前に宝島という名前の小島が出現する。そこを通過して北西に進行すると左手の海岸はすべて断崖絶壁で、国定公園の名前に相応しい、見渡すかぎりの自然景観が連続する。

 海岸に点在する奇岩を鑑賞しながら、いくつかの突端を通過していく。大抵の突端は潮流が交差し、風向が変化するため、複雑な波浪が渦巻く難所となり、これまで多数の漁船が遭難している特別な難所もいくつかある。一度、ある難所では恐怖のあまりパドルが停止してしまうほどの複雑な荒波であった。並走していた僚船の友人の怒声によって意識が回復し、なんとか征服できたが、海洋の底知れぬ恐怖を体験した時間であった。

 しかし、いつも難所というわけではない。ある著名な美女をタンデムの前座にして二人で航行したときには、この女神の影響か、どこが難所かというほどの静寂な海面で、カヌー一艇がなんとか通過できるほどの岩場を自由自在に航行したり、海食でできた洞窟の内部に進入してコウモリを見物するなど、シーカヤックの素晴らしさを満喫することができた。自然は本当に多様であることを実感する。

 ここでカヌーをする契機となったのは、スキーの聖地ニセコでペンションを経営しながら美国を拠点としてカヌーの指導もしておられる新谷暁生さんに出会ったことである。新谷さんは南米大陸の南端にある世界最高の難所ケープ・ホーンをカヌーで周回したり、アリューシャン列島の一部をカヌーで航行するなど、この世界では有名な達人であるが、たまたま出会って以来、いつも同行して指導していただくことになった。

 新谷さんは雪氷学会で論文を発表するほど雪崩に精通し、冬場にはニセコ一帯の雪崩予報を個人で発信しておられる。このように説明すると氣難しい名人を想像するが、ペンションでは夕食のときにバイオリン演奏をするなど、無骨な髭面からは想像もできない好漢である。このような出会いが契機となり、積丹半島を訪問するごとに、地域の方々と環境保全や地域経営について議論する会合を開催し、様々な交流を展開している。

 とりわけ地元の建設会社会長は、この活動を熱心に支援していただくだけではなく、七○代半ばであるにもかかわらず、自身もシーカヤックに挑戦され、その影響でカヌー仲間が次第に増加しつつある。環境が社会の主要な関心の対象となる時代に、地域の人々が周囲にある環境の価値を正確に認識することは重要であるが、そのような意味からも、海上からの視点を提供してくれるシーカヤックは貴重な手段である。

 しかし、この静寂に復帰した秘境にも開発の荒波が押寄せている。最近になり、積丹半島を一周する道路が完成した。それは地域の日常生活にとって必要な基盤であることには間違いないが、最大の目標は観光である。大型観光バスが多数の都会の人々を秘境に誘致してくる。それは老人や子供も自然を体験できる重要な手段かもしれないが、海岸からしか接近できない秘境を維持するということも今後の社会では重要なことである。





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