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論文

 日本国内で道路がないために普通の方法で到達できない場所は、現在では知床半島の先端くらいである。オホーツク海域にキバのように突出した全長六○kmほどの半島は、中央の山脈で二分されているが、北西の斜里町側は先端まで三○kmのルシャまで、南東の羅臼町側は先端まで二○kmの相泊までで道路は途絶え、そこからは海岸を徒歩で、知床山脈を縦走で、もしくは海上を小船でという冒険以外に先端まで到達する手段はない。

 そういう意味では本物の秘境であるが、知床半島が秘境であるのは近付きがたいというだけの理由ではない。その自然が秘境に相応しい生態や景観の宝庫だからである。一度も伐採されたことのない原生の森林、絶壁の岩肌の途中から海上へ直接落下する瀑布、数百メートルの断崖絶壁の連続、そして冬期には世界でも数少ない流氷の到来など、国内では知床半島でなければ体験できない自然が贅沢に集合しているのである。

 道路では接近できないということで、カヌーにとっては絶好の環境である。これまで数度、カヌーで半島を周回したが、その典型の航海を参考に知床半島の海岸の光景を紹介してみたい。出発地点が羅臼町側の相泊か斜里町側の宇登呂港になるかは風向き次第であるが、カヌーに最適の季節である夏期には相泊から出発するのが一般である。海面が静寂な午前になるべく距離を移動するために、夜明けとともに出発である。

 左手に朝日で色鮮やかな絶壁を眺望しながら進行していくが、その足元のわずかな浜辺には、所々に漁師が夏期だけ宿泊する番屋といわれる建物がある。最近では高速の漁船を使用するので、日帰りが中心のようであるが、かつては多数の漁師が宿泊しながら夏中漁業をしていた施設である。幸運なときにはイルカやクジラに出会い、順調であれば約四時間ほどで、知床旅情で一躍有名になった先端の知床岬に到達する。

 その周辺は荒磯であるが、海面が静寂なときには岩礁の隙間を通過して回遊する。オホーツク海側にはいくつかの入江があり、天候によってはキャンプで宿泊したりするが、最近ではヒグマの出没や環境への考慮から、番屋に宿泊させてもらう。天候と体力が順調であれば、さらに海岸を南西に進行していくが、途中、絶壁の岩肌から直接海上に水流が落下している絶景を見物しながら、やがて難所のルシャに近付く。

 知床半島は先端から付根にかけて、知床岳、硫黄山、羅臼岳と一千数百mの山々が連続しているが、ルシャの付近だけは途切れて二百m程度であり、そこを強風が吹抜けるために、他所が平穏でも、ここだけは海面が波立っているのが普通である。一度は秒速一○mほどの強風のなか、やっと通過した経験もある。そこから宇登呂港までは知床半島でも最高の景観であり、海中から切立った数百メートルの絶壁の足元を航行して自然を満喫する。

 これ以外にも知床半島の魅力は無数にある。三月から四月にかけては流氷の隙間をカヌーで航行することも可能であるし、カンジキで森林の奥深くを探索すれば、眼前に、エゾシカはもちろん、アカゲラ、クマゲラなどが出没する自然を満喫することもできる。夏期には羅臼岳や斜里岳の登山も得難い経験になるし、六月に一斉に開花する原生花園の草花も贅沢な息抜きである。まさに日本の楽園である。

 しかし、これらの楽園のような自然が現在に存続しているのは偶然の結果ではない。日本の多数の地域と同様、知床も二○世紀初期には開拓の対象となり、数百ヘクタールの森林が伐採された。しかし、過酷な自然環境のため開拓は失敗し、荒地として放棄されたままであった。七○年代末期になり、当時の斜里町長藤谷豊氏が「しれとこ一○○平方メートル運動」を提唱し、開拓跡地の買戻しを開始した。

 この運動は新聞などにも広範に紹介され、九七年末までには五万人弱の人々から五億円強の寄付がなされ、ほとんどの土地を購入して当初の目標を達成し、現在、森林再生を目指した「一○○平方メートル運動の森・トラスト」が後継の町長午来昌氏の指揮で進展している。前回の古座川町の事例でも紹介したように、社会の時代錯誤な開発の動向に断固として反抗した地域の人々の見識が、この楽園を維持しているのである。

 現在、知床半島を世界遺産に登録するかどうかの議論が地元で活発である。それは知床の自然を観光程度の低俗な目的に奉仕させるのではなく、原生の自然のままにして人間から隔離してしまおうという議論である。知床にとって重要な選択である。世界遺産となって、そこへ接近できなくなるのは心寂しいことではあるが、本当の自然が日本の北端に神話として存在しているということでは、精神への最高の贈物にもなる。





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