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論文

 アメリカのフロリダ半島の中央部分にエバーグレーズ国立公園がある。国立公園に指定されている面積だけでも六○○○平方キロメートの大湿地帯であり、日本最大の湿原を対象にした釧路湿原国立公園の指定面積が約二七○平方キロメートルであるから、エバーグレーズの広大さが想像できる。ここで現在、巨大な公共事業が進展している。

 フロリダの人口は過去百年で一○万人から一六○○万人に増大し、居住地帯が湿地の周囲に拡大し、湖沼は給水に利用され、干拓して農地が造成され、大湿地帯は急速に面積を減少させてきた。その象徴が半島の中央にあるキシミー川である。この延長約一六六キロメートルの蛇行した河川は、六○年代に農地開発と洪水対策のために九○キロメートルの直線の運河に改修され、当初の目的は達成された。

 ところがその影響によって、広範な湿地が乾燥し、多数の動物や植物が絶滅するという事態が発生した。ここからがアメリカの偉大なところである。改修が終了してわずか五年が経過しただけの一九七六年に、湿原の生態を回復するという目的のキシミー川復元法が制定され、再度、以前の状態に復元することになった。様々な実験を終了し、一九九九年から二○一○年の完成を目指して、現在、約一兆円の自然回復事業が進行している。

 このような自然回復事業は日本でも細々と開始され、北海道の釧路川や標津川では、農地開発のために一度は直線に改修された河川を以前の蛇行した河川に復元する工事が進行しているし、港湾のための浚渫工事で消滅してしまった海浜を再現する工事も各地で実施されている。小泉内閣の公共事業の目玉は自然回復公共事業となり、これまで百年以上も破壊してきた自然を、これから百年以上かけて修復しようというわけである。

 これは発展を前提とした経済の視点からは理解のできない愚挙である。膨大な投資をして社会に有用な社会基盤を確保したのに、再度、膨大な資金を投入して自然に復元してしまうことは無駄でしかない。実際、日本で自然回復公共事業の予算が提示されたとき、反対した民間企業の人々も多数存在していた。そのような人々を説得するのには以下のような説明が有効である。

 一例として、湿原は河川から流入する汚水を浄化し、洪水の調整の役割をし、人々に自然を満喫させている。森林も海岸も河川も同様である。このような価値を一定の方法で貨幣価値に換算した結果があるが、世界のすべての自然が人類にもたらしている価値は年間約三三兆ドルと計算されている。日本の森林についても同様の計算をしてみると、水源涵養や洪水防止などの価値は七五兆円になり、木材生産の価値をはるかに凌駕している。

 ちなみに、二○○○年の世界の国内総生産額の合計は約三○兆ドルであるから、世界の六○億人以上の人々が営々と労働した成果と自然がもたらす恩恵とはほとんど同額なのである。河川にダムを建設するということは、洪水を防御し用水を確保し電力を発電して経済には貢献する一方で、河川の浄化能力や土砂の運搬能力を減少させることになり、さらなる公共事業を必要とすることになる。

 そのように理解してみれば、自然を開発するということは自然の恩恵を単純に人間の経済活動に移行させるゼロサム・ゲームであるが、自然を回復させるということは、公共事業として経済活動を増大させるとともに、自然の恩恵も増大させるというプラスサム・ゲームになる。そのような意味で、自然回復は無駄な投資ではないのである。





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