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論文

現代社会の膨大な無駄

 政府の調査によると、日本で年間に廃棄されている食糧は約二○○○万トンになる。その大略の内訳は加工段階で四○○万トン、流通段階で六○○万トン、そして消費段階で約一○○○万トンとなっている。加工段階での廃棄とは、魚類を缶詰にするために内臓を廃棄したり、果物をジュースにするときに残渣を廃棄したりするものである。流通段階での廃棄とは、市場で買手がなくて廃棄したり、コンビニエンス・ストアなどで賞味期限を超過したために廃棄するものである。消費段階では、結婚式披露宴での食事の約二四%が手付かずで廃棄されたり、一般の宴会でも約一六%が廃棄されているという数字もあるが、最大の部分は家庭での残飯などであり、それが三四○万トンと推計されている。
 約二○○○万トンと表現されても実感がないが、世界全体で年間の食糧援助の総量が約一三○○万トンという数字と比較すると、如何に巨大な無駄が発生しているかということが理解できる。また、日本国内で年間生産されている食糧が約一五○○万トンという数字を提示されると、日本の食糧安全保障という視点でも肌寒さが襲来してくると同時に、飽食という言葉が現実の光景となる。その飽食の日本は世界でも例外というほどの食糧自給比率が低率の国家であり、重量計算と熱量計算は厳密には一致しないが、日本は熱量計算で食糧の六割を輸入しているから、概算では海外から約二二五○万トンの食糧を輸入して需要に対処していることになる。
 このような無駄は食糧の分野だけで発生しているわけではない。最近は少々緩和されたものの、家庭電化製品や情報機器や自家用車などは頻繁に新規の商品が発売される。より機能が向上した製品を社会に提供しているという役割がないわけではないが、基本は需要を促進するための戦略である。その結果、十分に使用可能な製品が大量に廃棄される運命にある。一例として、二○○二年度の日本国内での家庭電化製品の廃棄台数は、テレビジョン受像機が九一○万、電気洗濯機が四八二万、電気冷蔵庫が四三三万、エアコン機器が三七九万であるが、一方、一九九九年度の出荷台数は、それぞれ九六○万、四七九万、四二八万、六四七万であり、生産される台数に匹敵する商品が廃棄されている状態である。


無駄を許容しない地球の限界

 このような無駄の原因を一言で表現すれば、大量生産・大量流通・大量消費、そして大量廃棄という産業構造ということになる。生産する企業が同一の製品を大量に生産して価格を低下させ、国内・国外に大量に流通できるネットワークをもつ企業が安価な製品を世界各地に配送し、マスメディアで膨大な広告宣伝を繰返して人々が大量に購入するように誘導する。そして、次々と登場してくる新規の製品に目移りする人々は、すでに手元にある製品を早目に廃棄して、さらに購入するという構造である。これは産業という視点から評価すれば、産業規模を拡大していくということに多大の貢献をする構造であるが、どこまでも拡大することが困難な状況になってきた。
 資源と環境の限界である。確認されている資源の総賦存量を現在の年間の総消費量で割算すると、金鉱は二五年後、銀鉱は三○年後、銅鉱は五五年後、そして大量に存在している鉄鉱でさえ二五○年で枯渇するという数字になる。カドミウム、モリブデン、アンチモンなど希少金属といわれる鉱物も、百年前後の寿命である。世界に約三八億ヘクタールも存在している再生可能資源の森林でさえ、現在の速度で伐採していけば、四○○年程度で全滅する。化石燃料は周知のように、現在の速度で消費していけば、石油が四○年後、天然ガスが七○年後、石炭も二○○年程度で枯渇する。地球の歴史の四六億年と比較しなくても、陸上生命が登場してから約四億年という時間と比較しても異常な状態である。
 それらの行動を総合した結末が地球の大気の温度上昇である。過去百年で世界全体の気温上昇は○・五度であるが、日本では一・○度、南極では過去五○年間だけでも二・五度も上昇している。そして国連機関のIPCCは今後百年で最大五・八度も気温が上昇すると警告している。その原因は完全に解明されているわけではないが、人類が化石燃料や森林資源を燃焼して発生させる炭酸ガスと推定されている。このような事態は最近になって明確になってきたわけではなく、ノーベル化学賞受賞者であるスウェーデンのスヴァンタ・アレニウスは、すでにイギリスの科学雑誌の一八九六年四月号に、人間の活動は空中に炭素を拡散させており、その影響により地球は温暖になると予言している。
 科学よりは出遅れたものの、政治の分野でも一九八○年代から熱心に議論されるようになり、とりわけ一九八八年夏が転機となった。六月にはトロントで、何人かの国家元首も参加して「変貌する大気:地球安全保障との関係」という国際会議が開催され、九月には国連総会で、ソビエト連邦の外務大臣エドワルド・シュワルナゼが世界の構造を軍事安全保障から環境安全保障に転換すべきであるという歴史に記録される演説をし、年末にはソビエト共産党書記長ミハエル・セツゲイヴィッチ・ゴルバチョフが再度、国連総会で同様の趣旨の演説をしている。それらの集約した成果として、一九九二年夏にリオデジャネイロで「地球サミット」が開催され、際限なく拡大していく社会を見直す潮流が実現した。


無駄の発生の原因としての産業革命

 このような資源の制約や環境の制約に挑戦していくことが、二一世紀の人間にとって最大の課題になってきた。そのために実行すべき戦略は多数あるが、日本では三Rと要約される政策が推進されている。第一は「リデュース」、資源や製品の消費を削減すること、第二は「リユース」、部品や製品を何度も使用すること、第三が「リサイクル」、製品を回収して資源に還元して、再生使用することである。ここ数年、日本でも包装容器や家庭電化製品や建設廃材のリサイクルを義務とする法律が施行されているし、実際、国内でのリサイクルの実情は、ビールビンが九九%、スチールカンが八三%、アルミカンが七七%、古紙が五八%という比率であり、着実に三Rの方向に進行している。
 このような活動は重要なことであるが、あくまでも大量生産・大量流通・大量消費・大量廃棄という構造で循環している社会の問題を補正するものでしかない。リデュースは大量消費していた資源の数量を削減することであり、リユースは大量廃棄していた部品の一部を別途の目的に使用することであり、リサイクルも大量廃棄していた製品の一部を再生して使用するという意味であり、大量消費社会の構造を根本から変換することにはならない。根本からの変換を実現するためには、この大量生産から大量廃棄への社会構造が出現した経緯を検討してみる必要があるが、その出発地点は産業革命である。理由は実例で紹介するほうが理解しやすいが、典型である自動車製造業を実例としてみる。
 十九世紀後半にヨーロッパで発明された自家用車は、初期には各地にある小規模町工場で細々と生産されていた。そこでは顧客からの注文があると、その需要に対応して個別に設計をし、一台ずつ生産して顧客に提供していた。ところが一九○八年一○月に、アメリカでヘンリー・フォード一世がフォードT型の生産を開始したときから巨大な方向転換が開始された。フォードT型は、特定の顧客からの注文ではなく、企業が社会の需要を想定して、性能も外観も色彩も一種に限定して設計し、台数も企業が予測して最初から大量に生産し、それら生産された製品は全国各地へ配送され、それぞれの商店の店頭に展示されて大衆に販売された。
 このフォードが実現した生産方式を、それ以前と比較してみると、変化の巨大さが実感できる。第一に生産台数の飛躍である。以前は最大の量産車種でも年間二○○○台程であったが、フォードT型は最初の一年だけでも約六○○○台を生産し、最大の時期には一年に約一八○万台を生産している。その一方で価格は急速に安価になり、当時の自家用車が一台二○○○ドル以上の値段であったのに比較して、フォードT型は初期の八五○ドルから、最後は二九○ドルに低下している。その効果により、フォードT型は盛期にはアメリカ市場の半分以上を占有した。そして生産会社は一気に減少し、アメリカ主要都市に数千も存在していた自動車製造業はビッグスリーといわれる方向に淘汰されていった。
このような変化を社会は産業革命と命名したが、その特徴を要約すれば、受注生産から見込生産へ、個別設計から画一設計へ、個別生産から大量生産へ、顧客直送から商店販売への変化である。この革命は家庭電化製品や事務用品など工業分野に波及したのは当然として、世界のどこでも同様の食事を提供するハンバーガー・ショップ、世界のどこでも同様の宿泊を提供するホテル・チェーン、世界のどこでも同様の移動を可能にするエアポート・システムなど、サービス産業の分野にも浸透していった。そして、どこでも同様の内容のサービスを提供できるようにしたのは、世界規模の情報処理システムと情報通信システムであるが、その情報システムがさらなる革命をもたらした。


ITが実現する産業逆転革命

 一例として、三菱のコンパクトカー「コルト」は、形状が三種、内装が二種、エンジンが二種、駆動方式が二種、車輪が五種、座席が四種など、二四項目について、顧客が自由に選択して注文できるようにし、理論計算では三億以上の組合せの車両を提供できるようにしたところ、予想以上の注文が殺到する状態になった。フォードT型が実現した大量生産と完全に反対の方向である。島精機製作所はコンピュータ・グラフィックスでデザインしたセーターなどを、そのまま製品にできる自動編機を製造販売している。コンピュータについても、デル・コンピュータを先頭に、演算装置や記憶容量など様々な機能の組合せを顧客が選択して注文できる仕組が台頭している。
 これらの生産技術は情報システムを背景に登場したものであるが、顧客にとって、自分が希望する製品を注文できるという利点がある一方、企業にとっては、受注した製品しか生産しないから、製品の在庫を大幅に縮小できるし、販売のための流通機構を維持する必要もなくなるという利点がある。その結果、製品価格の相当部分を占有する流通経費が大幅に削減され、安価な商品を提供でき、価格競争で優位になる。しかし、これらの便益以上に重要なことは、見込生産のために発生する無駄な製品、画一設計のために発生する商品への不満、大量流通のために発生する複雑な輸送など、産業革命以来の産業構造が包含する問題の相当部分を解決できることである。
 この方式の特徴は、見込生産から受注生産へ、画一設計から個別設計へ、大量生産から個別生産へ、商店販売から顧客直送へと要約することができるが、これらは産業革命がもたらした産業構造と完全に反対の方向であり、命名してみれば「産業逆転革命」ということになる。説明するまでもないが、この逆転を可能にしているのがITといわれる情報革命である。個人が世界のどこからでも注文できるのも、その情報が瞬時にして生産する工場に伝送されるのも、生産に必要な部品が的確に納入されるのも、そして生産された製品が世界のあらゆる場所に配送されるのも、すべて世界規模の情報通信手段が浸透した結果である。しかし、この情報通信手段は便益以上の価値を人類にもたらしつつある。


ITがもたらす豊穣な縮小社会

第一に、情報通信技術は人類がこれまで手中にした技術のなかで、はじめて便益の増大と資源やエネルギーの消費が比例しない技術ということである。自動車にしても飛行機にしても、人間の歩行よりはるかに高速で遠方まで移動できる手段であるが、同時に資源やエネルギーの消費も歩行と比較すれば桁違いである。ところが情報通信は、その消費を反対に低下させる。一例を電子新聞で説明したい。従来の新聞と電子新聞を比較すると、同一の記事を入手するためのエネルギーは五%でしかないという計算がある。そして紙消費量の約一五%にもなる新聞用紙も節約できる、二四時間、最新の記事がどこでも入手できる手段のほうが環境への負荷が大幅に低下するのである。
第二に、多様な社会を実現する技術ということである。工業生産を中心とした社会が生活の水準を向上させたことは否定できないが、その内容は、どの家庭でも類似した家庭電化製品を使用し、類似したテレビジョン番組を視聴するというものであった。しかし、情報というものの本質は相違にある。音楽や小説など芸術の分野でも、発明や発見など科学の分野でも、価値があるのは最初であり、二番の価値は一気に低下する。工業社会から情報社会へ移行するということは、価値意識も画一から多様へと移行することである。その価値を実現するためには、多様な生活を実現できるモノやサービスが提供されなければならないが、それを無駄の発生を低下させて提供できるのも情報技術である。
農業を手中にし、工業を手中にし、人類は人口を増大させ、資源消費を増大させ、集団規模を増大させてきた。それは発展と理解されてきたが、地球環境の限界、資源確保の限界に接近し、現状のままでは維持できないと予測されるまでになってきた。その状況から脱却することが必要であるが、単純に人口を縮小し、消費を縮小し、規模を縮小することは困難である。生活水準を維持しながら、縮小を実現できるための手段として期待されるのがITである。仕事の効率の向上、生活の水準の向上という単純な目的だけのためではなく、これまで人類が進行してきた方向を転換する巨大な革命のための手段として、ITを理解できたとき、人類の未来に曙光が展望できるのである。





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