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論文

山積みの難問に直面する日本

 現在、日本という国家はこれまで経験したことのない多数の局面に挑戦しなければならない状態にある。今年の年初から人口が減少しはじめたが、これは近代社会になって最初の経験である。国家の長期債務残高が約800兆円と発表され、国民総生産額の1.6倍にもなっているが、これも史上最悪である。社会の安全については世界最高と確信してきたが、昨今の犯罪検挙比率は2割前後であり、安全神話は完全に崩壊している。
 国際社会に関係した難問も山積みである。中国や韓国とは靖国神社参拝問題や領土問題で軋轢が発生しているし、欧米社会は国際標準という美名のもとに日本の伝統的商習慣や社会制度の変更を強引に要求してくる。文化活動についても音楽も映画もスポーツもアメリカの文化が市場を席巻しているし、それに内側から呼応するように、初等教育で英語の授業を増大させるという意味のない教育方針を政府が提言するまでになっている。
 世界規模でも難問は続出である。現在社会を維持している石油や天然ガスは数十年内、石炭でも百数十年で枯渇すると推定され、それら化石燃料の大量使用によって大気温度が急速に上昇するという予測も様々に発表されている。世界各地で森林が大量に伐採され、現状で進行すれば400年程度で世界の森林は消滅するという計算になる。これらありとあらゆる危機が切迫しているにもかかわらず、我々は機敏に反応しないまま生活している。
 それは人間の感覚器官が緩慢な変化を認識するのには適合していないからである。29日目の恐怖という寓話がある。あるとき湖面に1枚の睡蓮が浮上し、毎日、2倍の速度で増加していった。29日目に湖面の半分まで到達したが、全面に拡大するのはあと何日かという質問である。毎朝、湖面を観察していれば簡単に回答できるが、たまたま29日目に湖畔を通過する人間は、その危機にはまったく気付かない。
 統計数字を分析すれば十分に理解できる危機であるが、現在の社会で何気なく生活していれば、気付くことは困難である。しかし、それを認知できる方法がある。歴史の教訓を学習することである。歴史は当時の人間にとっては緩慢な変化であっても、現在の視点からは時間を圧縮して観察することができる。ここでは歴史の過程で、そのような変化に気付かずに崩壊もしくは消滅した国家の事例を紹介し、日本の未来を検討する参考としたい。

文化を軽視したカルタゴ

 かつてカルタゴという繁栄した国家が存在していた。伝説によれば、フェニキア(現在のレバノン)南部の小島に建設された都市国家ティルス(現在のティール)の王位にあったピュグマリオンの妹君エリッサは叔父アケルバスと結婚していたが、その財力と勢力を脅威とした兄王に夫君を暗殺されてしまう。紀元前9世紀の事件である。ちなみに、ティルスの遺跡は現在ではユネスコの世界文化遺産に登録されている。
 身辺の危機を察知したエリッサは帆船に財宝を満載し、兄王に反抗していた若干の市民とともに亡命する。キプロスなどに寄港しながら地中海上を放浪し、最後にアフリカ大陸の北岸、現在のチュニジアの周辺に到達し、その自然の風景に魅了されて建国したのがカルタゴとされている。推定によれば紀元前814年頃のことである。フェニキアの言葉で新造の都市を意味する「カルト・ハダシュット」が名前の由来である。
 エリッサは現地ではディドという名前となり、トロイアの王子アエネイアスに失恋して自殺する悲恋の女性として、古代ローマの詩人プブリウス・ウェルギリウス・マロの『アエネイアス』に登場するが、その一方で名君でもあり、都市の基本制度を制定している。外務大臣も経験したフランスの19世紀の作家フランソワ・ルネ・シャトーブリアンは「この都市の採用した法律は、ディドの死後、アリストテレスにより絶賛された」と記述している。
 しかし、カルタゴの名前が歴史に記録されているのは、ポエニ戦争といわれるローマとの3回の戦争である。3回とも敗戦という結果になり、最後の敗戦で滅亡するが、第2回目は名将ハンニバルが有名なアルプスの山越えをしてイタリア半島に進攻し、トラシメヌス湖畔の戦闘、カンネーの戦闘でローマの大軍に圧勝する。しかし、本国から遠方のため補給が十分ではなく、5年の戦闘の最後にはアフリカまで後退し、結局は敗戦ということになる。
 カルタゴが滅亡する第3回目のポエニ戦争は紀元前149年から4年にわたって継続したが、ローマの巧妙な策略と執拗な攻撃により、紀元前146年に最後の要塞も陥落し、現在では遺跡さえも明確ではないほど、建物も書物も人間も殲滅され、世界地図から抹消されてしまった。このカルタゴの運命の原因は、すでに20年近く以前、森本哲郎『ある通商国家の興亡』(1989)などに指摘されているが、ここで再考してみたい。
 第一の原因は経済至上主義である。カルタゴは農業大国であると同時に、フェニキア民族の血筋を継承した貿易大国であり、地中海沿いの各地に多数の植民都市を建設するほど繁栄していた。その経済の実力が遺憾なく発揮されたのが敗戦による賠償の返済である。第2回目の敗戦で、ローマから巨額の賠償を50年賦で要求されたが、わずか10年後には、前払いで一括返済したいと交渉するほど経済を繁栄させることに成功している。
 しかし、問題は経済の裏側にあった。ある史家は「カルタゴの歴史は文明の浅薄さと脆弱さを明示している。それはカルタゴ国民が財力の獲得だけに血道をあげ、政治、文化、倫理などの進歩を目指す努力をしなかったことである」と記述し、フランスの史家シャルル・ピカールは「ギリシャの人々にとってカルタゴは退屈な場所であった。この商人社会では芸術は無用のものとされ、当然、評価されようがなかった」と記述している。
 もう一点、カルタゴ滅亡の原因が指摘されている。カルタゴの全盛時代にローマで活躍したマルクス・ポルキウス・カトーという大政治家がいた。この大物は81歳の高齢にもかかわらず、カルタゴへの調査団長として現地を訪問した。カトーは第2回目のポエニ戦争に参戦して敗戦の経験があり、もともとカルタゴに憎悪をいだいていたが、訪問のときのカルタゴの対応に激怒し、カルタゴを滅亡させなければならないと確信するようになる。
 ローマへ帰国したカトーはカルタゴの新鮮なイチジクを紹介し、「これほどの果物を生産する敵国が、この鮮度を維持できる距離に存在する」と演説し、以後、議会で演説するごとに、演説の内容と関係なく、最後は「デレンダ・エスト・カルタゴ(カルタゴを殲滅するべし)」と強調した。それが次第にローマ市民に浸透していき、第3回目のカルタゴ戦争へと進展していったのである。これらは様々な意味で日本の現状に酷似している。
 度重なる敗戦にもかかわらず、カルタゴが繁栄できたのは、ローマによって軍備を禁止され、商売のみに熱中できたからであるが、これは戦後日本の驚異の発展そのものである。しかし、その発展は経済のみという跛行状態であり、金儲け優先の風潮が社会の主流となってきた。違法すれすれの株式投資などで巨額の利益をあげる若者をマスメディアが英雄のように報道し、多数の若者が追随していくという異常な社会を登場させている。
 その裏側で政治は腐敗し、倫理は崩壊し、文化は堕落してきた。テレビジョン番組で芸人がニュース解説をする世界唯一の珍奇な国家になっていることに国民は気付かず、文化とは程遠い低俗番組に時間を浪費しているのが日本の現状である。文化は経済の余剰で育成される徒花のように理解されかねないが、国際社会で尊敬される唯一の民族の資産であり、カルタゴがローマに殲滅された遠因も文化の欠如にあったことを想起すべきである。
 そしてカトーの演説の最後の一句に匹敵するように、近隣諸国からは日本の国内問題について執拗に発言がなされているが、政治も行政も満足に反撃もできないまま放置している。これが国内においても国際社会においても、ボディブローのような効果をもたらしていることは明瞭である。40万人といわれるカルタゴの国民の生命を犠牲にした遺書を、我々は再考すべき時期にある。

位置を喪失したベネチア

 ローマ帝国が北方からの蛮族の侵攻に対抗しえなくなった5世紀頃、その攻撃から逃避するため、アドリア海域の最奥の干潟に建設された人工の小島がベネチアという都市国家の起源である。大量の木杭を浅瀬に打込み、その上部に石積みをして、9世紀初めに現在のベネチアの国土の基盤が完成した。面積の制約から、対岸の陸地に領土が展開する以前は、人口は最大でも20万人以上にもならない小国であった。
 13世紀中期に、フランスのルイ九世の使節としてウィリアム・ルブルックがモンゴル帝国を訪問し、ベネチアの商人マルコ・ポーロも帝国の首都である大都を訪問し、皇帝フビライに仕官しているが、これらの人々はいずれもベネチアから出発し帰着している。ベネチアが当時の東方への拠点であったことが理解できる。このような地位を獲得できたのは一朝一夕の努力によるものではなく、様々な努力と幸運な条件の累積によるものである。
 特筆すべきは造船技術の革新である。ベネチアでは船舶の建造にあたり、最初に竜骨を船台に設置し、それに肋骨を付加して全体の骨組を構成し、そこへ船板を貼付け、隙間を繊維と暦青で充填するという技術を開発した。これは大型の木造船舶を建造する現在の方法であるが、それ以前の方法と比較すると容易に大型船舶が建造できる革新技術であった。さらに滑車と梃子を応用した舵取り装置も開発し、操船を容易にした。
 このような技術革新を背景にし、ベネチアは地中海諸国中、最強の艦隊を維持するようになった。この艦隊は戦時には戦艦として、平時には商船として利用され、この強力な海上輸送能力を背景にして、海上貿易で巨額の利益を蓄積するようになった。その栄華は、ベネチアの中心にあるサンマルコ広場、その周囲に建造されたサンマルコ寺院やドゥカーレ宮殿などの壮麗な建物を見学すると容易に想像できる。
 その隆盛を象徴するのが1571年10月7日の1日で決着したレパント海戦である。ギリシャ半島レパントの沖合で、242隻のガレー船団からなるオスマントルコ艦隊と、317隻のガレー船団からなるカソリック連合艦隊が正面対決した海戦で、後者の中心がベネチア艦隊であった。約6時間の戦闘で、連合艦隊には10隻程の損害しかなかったが、オスマントルコ艦隊は損害230隻、死者約3万人にもなり、連合艦隊の完勝であった。
 しかし、どのような栄華も永続するものではない。1697年、ロシア帝国のピョートル大帝はヨーロッパで最高の技術をもつという評判のベネチアの国立造船施設(アルセナーレ)を訪問せず、オランダの造船技術を見学するためにアムステルダムなどを訪問した。もはやベネチアの戦艦の建造技術が最高ではないということで、ベネチアの栄光が色褪せはじめたことを象徴する事件であった。
 その主要な原因は二点ある。第一は地政学的優位を喪失したことである。ベネチアは北西ヨーロッパと東方の絶好の中継地点として発展してきたが、1497年にバスコ・ダ・ガマがアフリカ大陸南端を周回してインドに到着する航海に成功し、地中海側経由ではなく、東方からの香料などを北西ヨーロッパへ海上から直接輸送することが可能になった。輸送費用からすれば、海上輸送のほうが断然安価であり、ベネチアの地位は低下していった。
 第二は技術革新への対応の出遅れである。前述のように、ベネチアは近代造船技術の先駆であった。しかし、技術は常時進歩し、船舶が高度になるとともに建造費用が高騰していった。一隻の戦艦の建造費用は1563年と70年後の1633年を比較すると3.5倍になっているが、国営造船施設の予算は同一期間に1.5倍しか増加していない。これは戦艦の新造が制約される、つまり新旧の交替が困難であることを示唆している。
 これらの理由がすべてではないが、ヨーロッパで次第に勢力を減少させていったベネチアは、オーストリアを撃破して南下してきたナポレオン・ボナパルトの要求に抵抗することもなく、1797年10月、国家としての役割を終了した16世紀には地中海沿岸域を支配していた通商国家も、その時期から次第に勢力を減少させ、400年の栄華を終焉させるのであるが、ここにも日本が参考とすべき教訓が多数存在する。
 第一は世界の政治や経済の環境条件が変化し、地政学的優位が低下して国家が衰退することである。戦後の日本がアメリカの傘下で経済を発展させることができたのは、日本列島がソビエト連邦と中国という共産主義国家の面前に位置していたことによる。しかし、ソビエト連邦の消滅、中国の資本主義経済への移行、韓国の国力の増大などを考慮すると、いつまで日本が位置の優位を維持できるかは保証されることではない。
 第二は技術革新に対応する社会基盤の整備である。日本は1970年代から80年代にかけて、鉄鋼をはじめとして様々な工業製品で世界一位になるほど成功した。しかし、その時期から社会は情報時代に移行しはじめたが、その基盤整備は大幅に出遅れてしまった。努力しているものの、コンピュータの普及は世界19番目、インターネットの普及も10番目という程度である。ベネチアが艦隊の更新に出遅れて勢力を衰退させた事情に瓜二つである。
 そして末期のベネチアでは、未婚の男性の比率が六割にもなり、それが社会が変化に対応する覇気を衰弱させたといわれている。現在の日本では20歳台の男性で未婚は7割とベネチア以上である。世界を対象にした調査で、企業が社会の変化に対応しているかという項目で、日本は51カ国のうち32番目、起業家魂があるかについては50番目である。空恐ろしいほど老衰していくベネチアに重複する状態である。

資源の枯渇したナウル

 ほぼ赤道直下の太平洋上にナウルという名前の島国がある。21平方キロメートルという面積は伊豆七島の新島程度で、国土面積は世界192位というよりは下位から3番、多数のミクロネシアの国々と同様、珊瑚礁上に1万人強の人々が生活している小国である。先住民族としてポリネシア民族とメラネシア民族が生活していたが、1798年にイギリスの捕鯨漁船ハンターの船長ジョン・ファーンにより、西欧社会が「発見」した。
 19世紀後半にドイツの領土となり、それ以後、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドによる国際連盟委任統治、日本の軍隊の占領、戦後のアメリカによる占領、そして国際連合の信託統治など次々に持主が交替してきたが、1968年1月31日に独立してイギリス連邦の一員となり、1999年には大気温度の上昇による海面の上昇について発言するために、国際連合にも加盟している。
 このように国際政治の駆引きで翻弄されてきた島国であるが、19世紀後半に全島の8割が豊富なリン鉱石で被覆されていることが発見され、以後、この小国の運命が激変することになる。リン鉱石はアホウドリなど海鳥の糞尿が珊瑚の炭酸カルシウムと反応し、数百万年という時間をかけて良質のリン鉱石に変化したもので、20世紀初頭からイギリスが掘削を開始し、独立以後は国営ナウルリン鉱石会社が掘削して膨大な収入を確保してきた。
 独立以前は収益のほとんどを外国に収奪されていたが、独立以後は莫大な収益を国民に配分してきた結果、一人あたり国民所得は2万ドル以上で世界2位に躍進し、教育、医療、電気は無料で、高度な医療が必要なときは空路でオーストラリアまで無償で輸送され、結婚すれば政府から新居を提供され、納税の必要もない。リン鉱石の採掘は外国からの出稼ぎ労働に依存し、国民は労働の必要がないという天国のような国家になった。
 国民が生産活動に従事しないため、リン鉱石以外の生産活動は国内にまったくなく、工業製品は当然として、食料、淡水、エネルギー資源の100%を外国から輸入し、ときには臨時便航空機で国民が生活物資の購入のために海外に旅行するという状態であった。このようにして1970年代から80年代のナウルは世界でもっとも富裕な国家になった。国民で仕事をしているのは国会議員のみという冗談ともつかぬ状態だったのである。
 しかし、小島の有限な資源の採掘が限界に到達することは自明であり、70年代の最大の時期には年間240万トンにもなっていたリン鉱石の産出は、現在ではせいぜい5万トン程度に減少した。その結果、週200オーストラリアドルであった基本給与は70オーストラリアドルに低下し、医師の不足などから男性の平均寿命も53歳から49歳に低下し、ついに2001年度には国家財政も破綻という状態になった。
 日本にとって、ナウルは対岸の火事ではない。日本のエネルギー資源の自給比率は石油や石炭についてゼロ、全体でもわずかに4%でしかなく、鉄鉱、銅鉱、銀鉱などは完全に海外依存である。食料の自給比率はカロリー換算で約40%、穀物のみでは約28%、これは世界の173カ国中124位、OECD加盟30カ国で27番目である。そして国土面積の6割以上が森林でありながら、木材の約80%は海外から輸入している。
 個別には、小麦の輸入が世界の貿易の5%で3位、大麦の輸入が7%で2位、トウモロコシが約20%で断然の1位、大豆が8%で3位、そして周囲が海面でありながら魚類の輸入が世界の約18%で1位である。そして石油の輸入もアメリカの3分の2程ではあるが世界2位である。そのような脆弱な状態でありながら、国民総生産額で世界2位、一人あたり国民所得で5位という地位を維持している。
 このような日本の異常な状態を明確に表現するエコロジカル・フットプリントという概念がある。一人の人間が生活し仕事をするためには、住宅、オフィス、学校、病院などを建設する土地が必要であるし、道路や鉄道や発電施設など社会基盤の建設用地も必要である。それ以外に、食料生産のための農地、炭酸ガスを酸素に循環する森林、石油や石炭を採掘する土地などが必要である。それらすべてを合計した面積のことである。
 現状で、日本国民一人が必要とするエコロジカル・フットプリントは4.3ヘクタールと計算されているが、日本の国土面積約38万平方キロメートルを人口で割算すると0.3ヘクタールでしかない。領海の面積を同様に計算しても0.4ヘクタールであり、合計すると日本という国家が国民に提供できる面積は0.7ヘクタールで、3.6ヘクタールも不足している。この不足は海外の農地、油田、海面などに依存しているのである。
 今後も外国への依存が可能であれば問題はない。しかし、地球全体についての数字を検討してみると戦慄すべき内容である。現在の世界平均の生活水準で人間が生活すると、一人あたり必要な空間は2.2ヘクタールになる。ところが地球全体が提供できる面積は1.8ヘクタールしかない。0.4へクタール不足である。逆算してみると、1.2個の地球がないと人類は生存できないのである。地球は完全に定員超過になっている。
 この問題を百年という年月に圧縮して明示してくれたのがナウルなのである。もちろん問題は世界全体の課題であるが、国民が生存するための空間を自国の国土で2割以下しか提供できない日本は最初にナウルの状況になる大国である。もちろん、諦観をもって舞台から撤退する国家を選択することも可能ではあるが、努力を放棄するべきではない。衰退した国家のどこに問題があったかを冷静に分析し、方策を検討すべきである。

再興への意思を必要とする日本

 国家が難関に直面したとき、状況を打開していくためには、財力も技術も、場合によっては武力も必要であるが、根底に必須なものは国民が一体となって難関を打破していこうとする意思の結集である。カルタゴは文化を軽視したため、国民が一体となる基盤が欠如していた。ベネチアは長年の繁栄に埋没し、若者が再興への意欲を喪失していた。ナウルは人々が怠惰な生活の中毒となり、衰退に気付いたときには手遅れであった。
 トランスペアレンシー・インターナショナルという民間団体が、毎年、世界の約160カ国を対象に、不正認知指数(コラプション・パーセプション・インデックス)を発表している。各国の汚職や疑惑の程度を一定の規則で計算し10点満点で順位をつけたものである。最新の2005年の結果では、日本は7.3点で21番目である。これを問題とするか良好とするかは異論があるにしても、先進諸国といわれる国々では最低の部類である。
 江戸末期から明治初期にかけて海外から日本を訪問した人々は、異口同音に、武士階級から一般庶民まで日本の人々の高潔さを賞賛している。しかし、最近の様々な汚職や腐敗の事件は、政治も行政も企業も個人も目先の利益を追求するあまり、国家や社会の利益を死守するという覚悟とは程遠い状態であることを証明しているし、法律の隙間を利用して金儲けをする企業や個人も続出という状態である。その病根を発見し根治する必要がある。
 あまりにも著名であるため、今回は紹介しなかったが、世界最大の消滅した国家は古代ローマ帝国である。末期になり腐敗した帝国は「パンとサーカス」の政策で国家を維持しようとした。ローマ市民には食料と娯楽を無料で提供したのである。巨大なコロセウムで開催される残虐な闘技、いつでも利用できる巨大な浴場を無償で提供する愚民政策により、政治への不信、社会への不満を解消しようとしたのである。
 このローマ時代の浴場は建物全体を暖房する方式であり、24時間、木材を燃焼しつづける必要があったため、貧弱な土壌にかろうじて生育していた地中海沿いの森林は消滅してしまった。そして市民が娯楽に耽溺していた結果、ローマ市民からは蛮族と蔑視されていたゲルマン民族により、世界最大の版図にまで拡大した帝国は短期で崩壊した。環境の衰退と国家の衰退のいずれが問題かは異論があるにしても、衰退の原因はサーカスであった。
 現在のサーカスはテレビジョン放送である。ここ数年、テレビジョン番組をほとんど視聴しなかったが、ある民間放送の番組審議委員に就任したため、いくつかの番組を視聴し、その低俗なことに驚嘆した。背景となる知識のない芸人が社会を評論する番組、占師の独断と偏見に若者が感嘆する番組、学者が世間に迎合するためだけの意見を開陳する番組の連続である。50年前、大宅壮一が喝破した一億総白痴化は着実に進行していたのである。
 このような番組を維持するために、日本では毎年、2兆円近い金銭が投入されている。古代ローマ帝国が各地に壮大なコロセウムや浴場を建造し、そこでの娯楽に巨額を投入してきた状況に完全に重複する。古代では大衆が歓迎するということが唯一の評価基準であり、現代では視聴率稼ぎが唯一の達成目標となる。どのように低俗であろうとも、その勝負に勝利すれば勝者であり、制作を担当した人間は出世する。
 もうひとつテレビジョン番組の問題は、何事をも画像で表現しようとすることである。人間の重要な能力は物事を抽象し、言葉で表現し文字で記録することである。しかし、最初に画像ありきで、一字一句までをも稚拙な画像で表現する画面を視聴する大衆は、人間本来の現実を抽象する能力と、言葉から現実を想像する能力を急速に喪失し、動物に堕落していくのである。昨今の若者の短絡した行動は、この能力の喪失と無縁ではない。
 政府が毎年実施するアンケート調査で、金銭に余裕のある場合、未来の発展のために投資するか、現在の満足のために消費するかというものがある。70年代は前者が後者の二倍であったが、最近では丁度逆転し、国民の六割は現在の満足に消費すると回答している。ナウルの国民と相違するところはない。マルティン・ルターの「明日、地球が滅亡するとも、今日、自分は林檎の苗木を植樹する」という言葉を想起し、日本を再興するために歴史を役立てる必要がある。

参考文献

森本哲郎『ある通商国家の興亡:カルタゴの遺書』(PHP研究所)1989
松谷健一『カルタゴ興亡史:ある国家の一生』(白水社)1991
アズディンヌ・ベシャウシュ『カルタゴの興亡:甦る地中海国家』(創元社)1994
W・H・マクニール『ヴェネツィア』(岩波書店)1979
ヘルマン・シュライバー『ヴェネチア人』(河出書房新社)1985
高坂正堯『文明が衰亡するとき』(新潮社)1981
渡辺京二『逝きし世の面影』(葦書房)1998
ヘンリー・ダイアー『大日本』(実業之日本社)1999




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