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論文

 新型肺炎の感染が世界規模で急速に拡大していますし、日本でも感染者が少しずつ増加しています。
 なかなか沈静化しないし、政府の対策も適切とはいえない面もあり、新聞などに「令和の後藤新平はいないか」というような趣旨の記事がいくつか書かれていますが、その背景をご紹介したいと思います。
 一般に後藤新平が有名なのは、1923年に発生した関東大震災の翌日に組閣された第二次山本権兵衛内閣のときに内務大臣兼帝都復興院総裁となり、震災復興計画を立案したことです。
 後藤は関東大震災の発生する4ヶ月半前まで東京市長をしていましたから東京の事情は十分に分かっていました。
 そこで、震災の被害が大きかった東京の東半分を大規模に区画整理し、避難に有効な都市公園や幹線道路を実現するという大構想を立案しますが、当時の国家予算の1年分に相当する13億円を必要とするものでした。
 現在に当てはめてみれば100兆円の費用を必要とする計画で「後藤の大風呂敷」と言われ、結局、半分程度しか実現しませんでしたが、靖国通り、昭和通り、永代通りなどの幹線道路や隅田公園、浜町公園、錦糸公園などの都市公園は、後藤の構想で実現したものです。

 しかし日本の現下の状況に参考になる後藤の業績は「日清検疫」といわれる大規模な検疫を成功させたことです。
 後藤は幕末の安政4年(1857)に奥州の水沢に生まれていますが、水沢は戊辰戦争のときに会津に味方したため、明治政府の朝敵の立場になってしまいます。
 しかし新政府から派遣されてきた熊本藩士の安場保和(やすばやすかず)の給仕となったところ才能を認められ、上京することになります。
 安場は1872年に日本を出発した岩倉使節団との一員となって欧米を視察し、帰国後に福島県令になりますが、その縁があって後藤は須賀川医学校に入学し、期待に応えて2年後に医師となります。
 さらに1875年に安場が愛知県令となったときにも同行し、愛知県医学校で医師の開業免許や軍医の資格も獲得しました。
 33歳になったときに自費でドイツに留学、ミュンヘン大学で医学博士を取得して帰国し、35歳で内務省衛生局長に就任しますが、ある事件に巻き込まれ失職してしまいます。
 しかし上司であった石黒忠悳(ただのり)の推挙によって日清戦争から帰還した兵士の検疫の責任者として広島に派遣されます。

 なぜ広島かというと、1894年7月に日清戦争が勃発すると、直ちに広島に大本営が置かれ、明治天皇も広島に移られ、帝国議会も広島で開かれるなど、広島が臨時首都となっていたことと、当時、東京からの鉄道は広島が終点であり、広島市の南端には大型船が発着できる宇品港(うじなこう)があったため、出征する兵士や物資の輸送が宇品港を拠点としていたからです。
 翌年3月頃から兵士が帰還しはじめますが、当時、清国ではコレラが大流行していたため、その帰還兵を検疫、消毒する施設が必要だということになります。
 そこで4月に広島市と江田島の間にある似島(にのしま)と下関市の沖合の彦島、大阪市の桜島に検疫所を創設することが決定し、その指揮をしたのが臨時陸軍検疫部の部長の児玉源太郎と事務局長の後藤新平でした。
 この似島の施設は当時の世界で前例のない最大の検疫施設であり、約7万6000平方メートル、東京ドームの1.7倍の面積の敷地に検疫関係の建物54棟、それ以外の建物139棟という規模でしたが、もう一つの戦争といわれるほどの突貫工事により2ヶ月で実現しました。
 その規模と速度についてドイツの皇帝ヴィルムヘルム2世が絶賛したといわれています。

 当時、後藤が立案した「検疫作業順序一覧」という図面が残っていますが、輸送船が到着すると検査官が乗り込んで、感染者と健康者を分け、感染者は隔離して病室に送り、健康者は荷物を預けて浴室に行って約20分間入浴し、その間に荷物はドイツ留学のときに知り合った北里柴三郎の指導によって作った蒸気消毒室で消毒して出口で返すというシステマチックな仕組みでした。
 3ヶ月間の臨時検疫で687隻の船と、それらの船に乗っていた兵士や乗員23万2346人を検疫し、258隻の船を消毒し、真性のコレラ患者369人、擬似コレラ患者313人の感染者を隔離しています。   
 この検疫の行われた1895年には、日本国内では5万5144人のコレラ患者が発症し、4万154人が亡くなっていますが、この玄関口での大規模で迅速な検疫がなければどれだけ増えたかわかりません。
 実際、翌年からは日本のコレラ死者数は一気に数百人に激減しています。

 後藤の素晴らしさは医師としての役割を立派に果たしただけではなく、世間への対策にも長けていたことです。
 似島の周辺の住民にして見れば、恐ろしい伝染病の検疫施設が目の前の島にできれば不安にかられたり、反対したりします。
 そこで後藤は稼働する前日に広島市の名士や住民1800名を施設に招待して案内し、安心させています。
 この迅速かつ的確な対応に比べれば、現在の日本の新型肺炎への対策は十分とは言えないと思います。
 もちろんコレラとコロナウイルスとは感染力が違う、23万人の兵隊といえども限られた人数である、宇品港という特定の場所から入国してくる兵士のみを対象としている、軍という明確な権限を持った組織が対応しているなど、現在の状況とは違いがありますが、最も違うのは後藤新平という極めて有能な人間に権限を集中させ、指揮系統が明確な組織が対応したことが最大の違いだと思います。
 それが最初にご紹介した「令和の後藤新平はいないのか」という言葉に象徴されていると思います。
 今回の事件から、日本はアメリカのCDC(疾病管理予防対策センター)のような統合して対策を実施する組織が必要だといわれるようになりましたが、1万5000人の職員、年間1兆円の予算を用意することも大変ですが、最大の課題は対策を統括して指揮する有能な後藤新平のような人物を地位につけることだと思います。





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