TOPページへ論文ページへ
論文

 現在の皇居は江戸時代までは将軍の居住する江戸城があった場所です。
 ここには明暦3(1657)年まで、日本最高の45mにもなる5層の天守閣が立っていましたが、振袖火事として有名な明暦大火で焼失してしまいました。
 これは紀元63年のローマの大火、1666年のロンドン大火と並ぶ世界3大大火ともいわれるほどの大火災で、江戸の市街地のほとんどが焼失し、3万人とも10万人ともいわれる人々が死亡した大災害でした。
 このとき焼失した天守閣は元和8(1622)年に完成した建物ですが、その完成した日が明日11月10日だったのです。
 日本を支配する象徴ですから、再建が命じられ土台まで完成したのですが、4代将軍徳川家綱の叔父で後見人であった保科正之が、戦乱の時代は終わって50年近くが経過し、安定した時代になっているので、江戸城下の復興に膨大な費用が必要な時期に「天守はもはや無用の長物」と将軍に意見を具申し、天守閣は再建されず、現在まで土台のみが残っているというわけです。

 この焼失した天守閣の建設は「天下普請(ぶしん)」とか「手伝普請(ふしん)」といわれ、幕府が全国の大名に命令して工事をさせたものです。
 全国の大名に工事をさせたのには明確な目標がありました。
 天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が慶長3(1598)年に死亡すると、家臣が2派に分裂し、2年後に天下分け目の関ヶ原の戦いが発生します。
 その戦いに勝利した東軍の大将徳川家康は慶長8(1603)年に江戸幕府を開府しますが、日本を2分する戦争から3年しか経っていない時期ですから、以後、反乱が起きないように様々な戦略を駆使します。

 まず関ヶ原の戦いで味方であった大名を譜代大名として江戸の周辺や全国の要衛の土地に配置し、それ以外を外様大名として遠隔の土地に配置する国替えをします。
 また全国の大名に江戸城下の土地を与え、そこに屋敷を建設して正妻と嫡男を人質として住まわせることを命じます。
 さらに大名は2年に1回江戸に上がって滞在する参勤交代制度も設けます。
 屋敷を2箇所に構え、豪華な大名旅行を頻繁に行うことによって、各藩の財政力を弱めることを狙ったわけです。
 もう一つが日本各地の建築工事や土木工事を大名に割り振って資金を使わせる「天下普請」や「手伝普請」でした。

 建築工事は城郭の建設が多く、名古屋城、大坂城、駿府城、彦根城、二条城などが有名ですが、最大の天下普請は江戸城でした。
 慶長11(1606)年の工事では、小倉の細川忠興、加賀の前田利常、播磨の池田輝政、肥後の加藤清正など、20以上の藩が普請を命ぜられています。
 土木工事で最大は江戸湾に流れ込んでいた利根川の流路を、江戸に水害が及ばないように太平洋に流れ込むようにした「利根川東遷事業」と、濃尾平野を流れる木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)を大改修する「宝暦治水事業」です。

 このような手伝普請が、いかに藩の力を消耗させる効果があったかの代表として、宝暦治水事業を紹介したいと思います。
 木曽三川は現在では3本が別々に流れていますが、江戸時代には濃尾平野を流れる部分は網の目のように入り組み、絶えず氾濫し、住民が難儀をしていました。
 洪水防止のためには堤防を作って3本に分ける分流工事が必要でした。
 そこで宝暦3(1753)年の年末に第9代将軍徳川家重から薩摩藩主島津年重(とししげ)に手伝普請として治水工事をするように命令が下ります。
 薩摩藩では関係もない遠方の土地の工事を、なぜ引き受けなければいけないかと反対が強く、一部には幕府と一戦交えようという強硬意見さえありました。
 しかし家老の平田靭負(ゆきえ)が「遠方の無縁の美濃の人々を救う義務はないかもしれないが、薩摩も美濃も日本である。幕府の無理難題と思えば腹がたつのも当然であるが、同胞の難儀を助けるのは人間の本分であり、忍耐して工事を完成すれば、御家安泰の基礎となるばかりか、薩摩武士の名誉を末長く後世に伝えることになる」と家臣を説得して引き受けることになったと伝えられています。

 早速、翌年1月に平田靭負を総奉行として合計947名の薩摩藩士が現場に向かい、雪解け水で増水する前に工事をするために、2月から工事を始めます。
 しかし、幕府は細かい規則を定め、藩士を1箇所に集めると反乱の危険があると分宿させ、食事は一汁一菜という質素な内容を強制するなど面倒なこともあったようです。
 そのような行為に反抗して切腹する藩士が51名にもなりますが、幕府への抗議だと思われると、御家断絶になりかねないので、すべて病死とされ、埋葬してくれる寺もないという状態でした。
 さらに現場では赤痢が発生し、体力を消耗していたため32名が病死するという悲惨な事態も発生しています。
 このような過酷な条件でしたが、翌年3月に工事が完了し、幕府の検査では「御手伝普請結構な出来致して御座る」と賞賛されて合格しますが、その翌日、平田靭負は藩主の島津年重に工事完成の報告書類を送り、現在では300億円にもなる資金を使い、85名の藩士が死亡した責任を取り、現地で自害しますが、これも病死扱いでした。
 幕末に薩摩藩が倒幕に熱心であったのは、この確執があったという説もあるほどです。
 これだけの偉業を成し遂げたのですが、その顕彰などをすると幕府からお咎めを受けるとの心配からできず、ようやく明治時代になって事実が明らかにされ、木曽三川の河口付近に「宝暦治水碑」や平田靭負と工事中に亡くなった藩士を祭神とする「治水神社」が作られ、鹿児島にも「薩摩義士碑」や平田靭負の銅像が立てられるという状態でした。
 一般に江戸時代は260年近く平安な時代であったと言われますが、統治のためには様々な裏側があったということを知ることも重要だと思います。





designed by BIT RANCH / DEGITAL HOLLYWOOD
produced by Y's STAFF
Copyright(c) Tsukio Yoshio All Rights Reserved.