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論文

 今日は地図の話をさせていただこうと思いますが、およそ190年前の1828年の今日は日本地図に関係したシーボルト事件が発生した日です。
 有名な事件なので簡単に紹介しますと、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトはドイツ人ですが、1823年に、当時の日本で唯一の貿易の窓口であった長崎の出島のオランダ商館へ国籍を偽ってオランダ人医師として入国します。
 目的は日本の実態を偵察することでしたが、日本人の通訳よりもオランダ語が下手で怪しまれ、自分は山地オランダの出身で訛りがあると説明していました。
 オランダは国土の大半が干拓地で、最も高い場所で標高322メートルですから山地などありませんが、当時の日本人でオランダに行った人はいませんから、なんとか誤魔化せました。

 長崎市内に鳴滝塾を開くことを許され、西洋医学の教育を行い、高野長英、二宮敬作、伊藤圭介など優秀な人材を育て、一般の人々の診察や治療もしたのでシーボルト先生として日本人に親しまれました。
 それら多くの人々の協力で日本の多数の動植物を収集し、1828年に帰国しようとした時に帆船が台風で座礁し出発できなくなってしまいます。
 その間に、密告によりシーボルトが持ち出し禁制品である伊能忠敬の作成した日本地図を所持していることが判明し、シーボルトは国外追放、関係した10数名の日本人が処分されたという事件がシーボルト事件です。
 現在でこそ、グーグルアースやグーグルマップで一部の地域を除いて、世界中のどこについても詳細な地図や衛星写真が入手できますが、かつて地図は国家機密であったことを窺わせる話です。
 そのような時代でなくても、地図は国家の情報の基本で、国土計画や都市計画だけではなく、国土防衛にとっても地図は重要な情報です。

 来週の8月15日は終戦記念日ですが、その大変な時期に国家にとって重要な情報である日本地図を守った勇敢な人がいたことを紹介したいと思います。
 明治時代になり、日本全体の詳細な地図が必要だということで、明治4(1871)年に兵部省が陸軍部と海軍部に分けられ、陸地については陸軍部に参謀本部測量局ができて地図を作成、水面については海軍部に水路局ができて水路図を整備することになりました。
 その測量局は明治21(1888)年に陸地測量部になります。
 この陸地測量部は明治25(1892)年から5万分の1の地形図の作成に着手し、33年後の大正14(1925)年に全土の地図を完成させました。
 これは世界各国の地図の中でも非常に詳細で、かつ美しい地図として評価される出来栄えでした。
 しかし、第二次世界大戦に負け、占領軍によって陸地測量部が解体され、銅版の原板が接収される危機が切迫してきます。
 そこで原板を日本の手中の残す作戦が極秘で実施されました。

 その詳細を菊池正浩さんというジャーナリストが当時の責任者であった大本営陸軍参謀・陸地測量部担当の渡辺正少佐から取材されたりして『地図が語る日本の歴史:大東亜戦争終結前後の測量・地図史秘話』(2007)という本にまとめておられますので、それを参考に経緯を紹介させていただきます。
 戦況が悪化した1944年9月に、本土決戦に備えるため大本営を長野県の松代に移す作業がはじまったことは有名ですが、陸地測量部も松本平に移し、測量機材、印刷機材、地図の原板などを移転させていました。
 そして終戦から2日目の8月17日に渡辺参謀は戦後の復興のためには正確な地図を残すことが重要だと考え、大本営直属の陸地測量部では解体させられることは必至なので、名称を地理調査所に変更して、所属を内務省に変更し、以前から存在していた組織と偽って占領軍と存続の交渉をするという大胆な提案を作成します。
 翌日、その案を参謀本部の情報担当の有末精三中将に持参すると、渡辺参謀が個人で決行するように命令されます。
 そこで8月31日に陸地測量部を解体し、翌日、内務省地理調査所という自筆の看板に架け替え、汚したりして古くからあったように偽装します。

 日本に進駐してきたGHQは早速、9月23日から松本にある陸地測量部を接収するために視察することになり、ダンバー大佐を首班とする連合国軍視察団15名が自動小銃などで武装した5台の自動車で出発し、渡辺参謀が同行します。
 現在の中央高速道のような道路ではなく、舗装もされていない甲州街道を進み、初日は河口湖の富士ビューホテルに宿泊し、翌日は浅間温泉の旅館に宿泊します。
 道中は県知事などの手配で、沿道で住民が出迎えて歓迎したため、敗戦直後の田舎では騒乱も覚悟していた視察団は次第に打ち解けるようになります。
 浅間温泉の旅館では、食糧難にもかかわらず、300グラムほどのステーキを始め、山海の珍味が並び、食事が終わると襖が開いて綺麗どころが三味線の伴奏で踊りを披露するなどの接待した結果、翌朝にはダンバー大佐から「昨夜は本当にありがとう」と感謝されるほどの関係になります。

 そしていよいよ9月25日に視察になりますが、入口の「内務省地理調査所」という看板を目にしたダンバー大佐から「これは何だ」と質問され、「以前からある内務省の地理調査所です」と返答すると、あっさりと了解され、地図の原板も発見されずに視察が終了しました。
 終了後は上高地に案内し、さらに御殿場を経由して箱根の富士屋ホテルに宿泊し、27日に無事、東京に到着しました。
 最後にダンバー大佐は「よく案内してくれた。戦地から直接きたので、土産はないが」と言って、自分の着ていた革ジャンバーを渡してくれたほど感謝されて視察は終了しました。
 こうして明治以来、作成してきた日本全体の地図の原板が接収を免れ、それを使って印刷された地図が戦後の復興に役立ったというわけです。
 現在、筑波にある国土地理院は1960年に地理調査所から改名されて建設省の所管になった組織ですが、この渡辺参謀の深謀遠慮により明治以来の蓄積が継承された組織ということになります。





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