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論文

 明日7月14日は日本では「パリ祭」の日とされています。
 パリ祭だから首都のパリでお祭りをするのかと思われるかも知れませんが、そうではなく、今から228年前の1789年7月14日にフランス革命の発端となったバスティーユ牢獄をパリ市民が襲撃した事件が発生した日で、翌年から建国記念日になっています。
 それが日本でパリ祭と言われるようになったのは、戦前の1933年に公開された、パリの下町の男女の波乱万丈の恋愛を題材にしたルネ・クレール監督のフランス映画の名作に由来しています。
 原題は「7月14日(カトルズ・ジュイエ)」ですが、この映画を日本に輸入した東和商事社長の川喜田長政・川喜田かしこ夫妻や、当時は宣伝を担当していた映画評論家の筈見恒夫(はずみつねお)さんたちが鑑賞しながら思いついた題名が「巴里祭(ぱりまつり)」だったという由来です。

 今日は、このフランス革命に深い関係のある天才数学者をご紹介したいと思います。
 数学の方程式で「2X+3=1」という形式の一次方程式の答えは小学生でも解けます。
 さらに「2X∧2(二乗)+3X+5=4」というような二次方程式も中学校で公式を教われば、誰でも答えが得られます。
 しかし三次方程式や四次方程式になると簡単には解けませんが、1545年にイタリアの数学者ジェロラモ・カルダーノが解法を発見しました。
 五次方程式は難問でしたが、イタリアの数学者パオロ・ルフィニが不完全ではあるものの、一般的な解法はないことを証明し、1824年にノルウェーの数学者ニールス・アーベルが正確に証明しました。

 さらに五次方程式が解ける場合と解けない場合があることを簡潔に証明したのが今日ご紹介するフランスのエヴァリスト・ガロアという天才数学者で、わずか18歳の時のことでした。
 ガロアは1811年にパリ郊外の学校校長の家庭に生まれ、13歳の時に日本の高等学校に相当するリセに入学します。
 当時は1789年に勃発したフランス革命によって、ルイ16世と王妃のマリー・アントワネットが処刑されてブルボン王朝が終わり、1804年にナポレオンが皇帝になった第一帝政時代も1814年に終わり、再度、王政が復活していた動乱の時期でした。
 ガロアは18歳の時に父親が自殺したことも影響し、不安定な精神状態でしたが、数学には能力を発揮し、数学の論文を書いて、学士院で発表してもらうように、当時の大物数学者(オーギュスタン・ルイ・)コーシーに届けます。
 ところがコーシーは論文を発表しなかったどころか紛失してしまいます。
 このコーシーは罪深い人で、五次方程式に一般解法がないことを証明したニールス・アーベルが審査のために送ってきた論文も紛失してしまい、極貧の中で研究していたアーベルは落胆し、その影響もあり27歳で夭折してしまいます。

 ガロアは再度、論文を書き直して、今度はやはり大物数学者ジャン・バティスト・ジョセフ・フーリエに送りますが、今度はフーリエが急死してしまい、そのどさくさでまたも論文が紛失してしまいます。
 コピー機械のなかった時代の悲劇です。
 これは丁度、復古したブルボン王朝のルイ18世が時代錯誤な反動的な政治をして国民の不満が鬱積し、1830年7月27日から3日間、7月革命が発生した動乱の時期でした。
 個人的にも大学受験に失敗するなど不満が鬱積していたガロアは急速に政治に関心を持つようになり、急進共和主義の秘密結社「民衆友の会」に参加し、「民衆の蜂起のために、誰かの死体が必要であれば、自分がその死体になってもいい」と発言するほど過激になっていきます。
 それでも数学の論文は書き続けていましたが、友人と共に市内を行進していた時に、ナイフを持っていたということで、逮捕され投獄されてしまいます。

 獄中にいた1832年3月にパリ市内でコレラが流行したために、付近の療養所に仮出所になりますが、その時に友人に「つまらない色女のために決闘することになった」という手紙を送り、実際、5月30日未明にパリ郊外でピストルの決闘をし、負傷してしまいます。
 当時すでにフランスでは決闘は禁止されていましたが、実際には20世紀初期まで行われていたようです。
 負傷したガロアは現場に放置され、数時間後に明るくなってから付近の農夫が発見し、病院に搬送されましたが、翌日死亡しました。20年7ヶ月の人生でした。

 その最後の時に病院に駆けつけた弟に残したという「泣かないでくれ。20歳で死ぬのには、ありったけの勇気が必要だから!」という言葉は、フランスの作家ポール・二ザンの処女作「アデン・アラビア」(1931)の冒頭「僕は20歳だった。それが人生で最も美しい年齢などとは誰にも言わせまい」という言葉とともに、若者に人気のある言葉です。

 最近の研究により、「つまらない色女」の素性が明らかになりました。
 コレラが流行した時に一時、滞在していた療養所の所長の令嬢で、ガロアが見染めて求婚しますが断られた相手だということです。
 したがって決闘は「つまらない色女」のためではなく、熱心な共和党員であったガロアを謀殺するための陰謀であったという意見も根強く存在します。
 実際、ガロアの葬儀には3000人ほどの共和主義者が参列するほど知られた存在でしたが、しばらくして墓石は跡形もなくなったことからも、その可能性が信じられています。
 有り余る数学の才能が、このような形で失われたことは残念ですが、自分の信念を追求した人生は美しいと憧れます。





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