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論文

 今日は東京の銀座について紹介させていただこうと思いますが、銀座という地名や商店街は東京だけでも「十条銀座」「戸越(とごし)銀座」「砂町銀座」をはじめ100以上あるといわれていますし、それらを含めて平成16年の調査では全国に345の銀座商店街が確認できたそうです。
 全国の商店街の数は約1万5000ですから、2%以上が銀座を名乗っていることになります。
 日本に富士と名前がつく山は北海道の「蝦夷富士(羊蹄山)」から鹿児島の「薩摩富士(開聞岳)」まで340くらいあるそうで、偶然にも全国の銀座の数と同じ程度です。
 なぜ銀座も富士山も日本各地で真似されるのかの簡単な理由は一番だということです。
 富士山が一番なのは明確で、日本の最高峰、しかもコニーデ式という美しい円錐形の独立峰だから、それに近い形の山が「〇〇富士」と名乗るのはわかります。
 それでは、銀座は何が一番かというと、日本で最初というものが数多くあることです。
 とりわけ、江戸末期から明治初期にかけての文明開化と言われる時期には銀座に最初が集中しました。

 明治政府は西洋文明に追いつくために、あらゆる分野でお雇い外国人と言われる西洋の人々を雇い、西洋文明を導入しました。
 正確な数字がありませんが、19世紀だけで官民合わせてお雇い外国人は8400人にもなっています。
 それらの人々に払った給料はピンからキリまでありますが、最高給は造幣寮支配人として雇ったイギリス人のウイリアム・キンダーで月給1045円を支払っていました。
 現在の総理大臣に相当する太政大臣の三条実美(さねとみ)の給料が800円でしたから、その1・3倍で、現在価格に換算すると年俸で6300万円にもなりますから、驚くほどの高給でした。
 そのお雇い外国人は技術系が多く、都市計画の技術者が設計したのが日本最初の不燃街区の「銀座煉瓦街」で、明治10年(1877)に完成しました。
 これはパリの大通りシャンゼリゼーを参考にしたものですが、本物のシャンゼリゼーは道路の幅が70メートルですが、江戸時代はもっとも幅広い道路でも14メートル程度でしたから、さすがにそこまで真似はできず、27メートルに落ち着きました。それでも歩道と車道を分離して並木も植え、煉瓦街と名付けられたように、煉瓦造りの建物が両側に並びました。
 ただし、横浜の名誉のために正確に説明すると、日本最初の歩車分離道路は横浜の「日本大通り」、最初の並木も横浜の「馬車道」です。

 しかし、この銀座には明治15年(1882)に日本最初の電気によるアーク灯の街灯第一号が実現し、現在、銀座2丁目に一基だけ復元されています。
 この都市計画の分野では、銀座の日本一はいくつもあり、同じ明治15年には「東京馬車鉄道」が新橋から銀座通りを通って日本橋まで開通しました。
 馬車鉄道は線路の上に置かれた車両を馬が引っ張る交通手段でしたが、馬糞の問題などがあり、1904年には路面電車に移行しました。

 このように舞台装置が整った銀座には次々と日本最初が実現します。
 まず飲食系の第一号が多数登場します。喫茶店の第一号についてはいくつかの先駆があり、明治7年(1877)には神戸の元町に「芳香堂」、明治9年(1876)には東京の浅草寺境内に「油絵茶屋」、明治19年(1886)には東京の日本橋に「洗愁亭」などが開店していましたが、明治44年(1911)に銀座8丁目にできた「カフェー・プランタン」はフランス風にカフェーと名乗った喫茶店の最初で、同じ年には「カフェー・パウリスタ」や「カフェー・ライオン」も開店しています。特に「カフェー・ライオン」は現代風に言えばメイド喫茶の第一号で人気になりました。
 ビヤホールは明治30年(1897)に大阪の中之島に現在のアサヒビールが開設した「アサヒ軒」が第一号で銀座は出遅れましたが、2年後に現在のサッポロビールが経営する「恵比寿ビヤホール」が銀座8丁目に開店し、開店した8月4日は現在「ビヤホールの日」になっています。
 戦後になってもフランスの高級レストラン「マキシム・ド・パリ」は1966年に数寄屋橋交差点のソニービルに開店し、アメリカのハンバーガーショップ「マクドナルド」の第一号店は1971年に銀座4丁目の交差点にある三越百貨店の1階に開店し、前年から実施されていた歩行者天国の珍しさと、最も高級とされる日本の百貨店とアメリカの大衆食品のアンバランスで大人気になりました。

 馬車鉄道や電気式街路灯などから始まり、最新技術を取り込むことについても銀座は抜け目なく、1900年には新橋駅構内に交換手を通さない自動電話の第一号が設置され、テレホンカード方式の公衆電話の第一号も1982年に数寄屋橋公園に設置されています。
 商業施設に日本最初のエレベータとエスカレータが設置されたのは1914年に日本橋の三越呉服店ですし、アメリカ製の三色式の自動式信号機が日本で最初に設置されたのも日比谷交差点で戦前の1930年のことです。
 最近ではコンピュータのアップルストアの第一号店も2003年に銀座3丁目の角に出店しており、流行の風俗から最新の技術まで、銀座は第一号の展示場になってきました。

 江戸末期から現在まで、多くの輸入文化の第一号を取り込んできた原因は「ウインブルドン効果」だと思います。
 テニスの世界四大大会は「全豪オープン」「全仏オープン」「全米オープン」とロンドンで開催される「ウインブルドン選手権」です。
 この「ウインブルドン選手権」は1877年に第一回が開かれ、140年以上の歴史を誇る大会ですが、男子は1936年から2013年まで77年間、イギリス人の優勝者はなし、女子も1977年以来、40年以上イギリス人は優勝していません。
 そこで「ウインブルドン現象」という言葉が誕生しました。日本語では「貸し座敷」ということになりますが、世界一人気のある貸し座敷です。
 銀座は明治以来、いつも最先端を最初に導入する日本一の貸し座敷を続けてきた場所と理解するのが正しいと思います。
 毎年、路線価単価の日本一は銀座4丁目と銀座5丁目の角地になっていることが、それを証明しています。参考までに今年の平方メートルあたりの単価は5720万円で、ハガキ1枚の面積で85万円です。
 富士山のように本体が日本一であることを真似するのではなく、今後も貸し座敷精神を忘れず、絶えず世界や日本の最先端を貪欲に客として招く方針を貫けば、銀座の地位は永遠だと思います。





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