TOPページへ論文ページへ
論文

 2日前の15日に東北のある町で町長選の告示が行われましたが、ここで2期目を目指す現職の町長と7年前まで3期町長を勤めていた元町長が立候補するという対立が発生しました。
 場所は宮城県の最南部の太平洋に面した山元町で、3年前の東日本大震災のときには津波が襲来し、人口約1万7000人のうち635名の町民が亡くなられるとともに、人口の45%の人々の居住区域が浸水した町です。
 なぜ現職の町長と一旦は引退された町長が対立することになったかというと、津波の被害から町を再建しようという計画について町民の間に対立が発生し、それぞれの立場を支持する2人が立候補する原因になったのです。
 その対立の争点がコンパクトシティです。

 これは私にとっては懐かしい言葉で、まだ都市計画のコンサルタントをしていた1973年に、アメリカで『コンパクトシティ』という題名の本が出版されたからです。
 この本が注目されたのは、2人の著者が都市計画の専門家ではなく、一人は線形計画法という応用数学の分野でシンプレックス法という計算方法を発明したジョージ・ダンチヒという有名な数学者、もう一人はオペレーションズ・リサーチという分野で階層分析法という理論を開発した有名なトーマス・サーティという学者であったことです。
 両方の理論とも大学院で勉強していた内容でしたので、その分野で有名な学者がなぜ都市計画に挑戦したのかに興味が沸き読んだ記憶があります。

 当時、アメリカでは郊外に広大なニュータウンが次々と建設されている時期で、スプロール現象といわれる状態が社会問題になっていました。
 そこで2人の理論家が、低密度で広がる郊外都市の代わりに、高密度であるけれども自然豊かな都市を建設することは可能だという理論を示したのがコンパクトシティだったのです。
 提案された都市は直径1キロメートルほどの人工地盤を何層も重ねて中央部分は巨大な吹き抜けになった円錐台にし、それぞれの人工地盤に住宅を建設するという内容でした。
 これは開発する土地面積は少なく、職住接近の生活が実現し、エネルギー消費も減少するという、理論家らしい提案でしたが、実務家からは関心をもたれず忘れ去られていました。

 ところが1990年代になり、アメリカの都市計画家ピーター・カルソープが公共交通利用開発(TOD)というアイディアを提案します。
 アメリカの郊外への発展は自動車の普及とともに進んだのですが、それが環境問題や格差問題の原因になっているので、鉄道に依存する方向に転換し、鉄道駅の周辺に商業施設や住宅を集中させようという構想です。
 その結果、アメリカのオレゴン州のポートランドやミネソタ州のミネアポリスでは新型路面電車(LRT)の沿線に高密度な開発をするニュータウンが実現するようになり、これらがコンパクトシティの手本とされています。

 日本で関心が持たれるようになった原因は、地方都市の人口が減りはじめるとともに、財政も厳しくなり、これまでのような郊外に分散した都市は基盤整備やバス交通をはじめとする行政サービスが困難になってきたという背景があります。
 そこで国土交通省がコンパクトシティを政策として推奨し、とりわけ東日本大震災で壊滅状態になった地域での採用を推進することになり、山元町はモデル地域になっているのです。
 これまでは面積65平方kmの土地に22の行政区が分散していたのですが、津波で海岸沿い一帯は壊滅的被害を受け、10の集落は山側に集団移転する必要が発生しました。
 そこで町を南北に縦貫しているJR常磐線も山側に移し、2つの駅を新設し、その沿線に新しい3つの市街地を建設するというコンパクトシティが計画され、現職の町長が推進していました。
 ところが、沿岸部の津波の被害を受けた集落の人々が付近の高台に集団移転しようとしたところ認められず、その進め方が強引だということで、昨年12月には町議会で町長の問責決議案が可決されて町を二分する紛争になり、コンパクトシティ推進派と反対派の候補が立候補したというのが現状です。
 選挙は今週の日曜日に行われ、町民の判断が明らかになります(現職の斎藤町長が当選)が、コンパクトシティについての意義を考えてみたいと思います。

 日本でコンパクトシティの先進事例とされるのは富山市と青森市です。
 富山市は人口42万人の都市ですが、県庁所在都市で人口密度が最も低いという分散した都市です。
 そのため世帯あたりの自動車保有台数は福井県に次いで全国2位、通勤の自動車依存率も84%と中核都市では最高という状態でした。
 その結果、鉄道とバスの公共交通の利用者数も減少し、高齢者の生活は不便になり、都心も閑散となりはじめました。
 将来を考えると、さらに深刻になると判断した市は、廃線予定のJR富山港線を私鉄の富山ライトレールに転換し、その沿線に企業や住宅が集中するような構想を立案しました。
 目標としては現在7・6kmのポートラムも含めて、新型路面電車の延長を25kmにし、その沿線に生活する人口を現在の12万人弱から2025年には16万人強にするという内容です。

 人口30万人の青森市では、1970年から2000年までの30年間に都心から郊外に移動した人数が人口の4.5%に相当する1万3000人になり、そのために道路や下水道の基盤整備に350億円がかかり、財政を圧迫した上に、郊外の除雪などの維持費に多額の費用が必要になるという状況でした。
 そこで青森駅を中心とする都心部に冬季も融雪した道路を整備し、駅前を再開発して生鮮市場、図書館、公共施設が入った地下1階、地上9階の建物を建設し、都心部にマンション建設も推進しました。
 その結果、1970年の6600人から1995年には2700人まで減少していた都心部の人口が2006年には3440人に回復し、図書館の利用者も5年間で4倍以上に増え、都心が復活してきました。

 この2例は県庁所在地ですから、山元町とは人口規模も都市環境も違いますので、町民が自身で将来を選択されることが第一ですが、人口が確実に減少し、財政も厳しくなる日本の将来を考慮し、地方都市のあり方を示されることを期待したいと思います。





designed by BIT RANCH / DEGITAL HOLLYWOOD
produced by Y's STAFF
Copyright(c) Tsukio Yoshio All Rights Reserved.