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論文

 都内でも戦災に会わず、戦前からの木造住宅が残っている下町の路地には家の前の狭い空間でアサガオや鉢植えの草木を育てている光景が残っていますが、同じような長屋暮らしの江戸の庶民も家の前の路地で園芸を楽しんでいました。
 江戸時代の俯瞰図を見ると、江戸の都市は緑が多く、自然が豊かであったということが分かりますが、その大半は小石川後楽園が水戸藩の中屋敷の庭園であったり、小石川薬園は幕府の薬草を栽培する場所であったりして一般の人々は立入りできませんでした。
 庶民が身近に緑の中でくつろげる場所は、8代将軍徳川吉宗がサクラを植えて庶民に解放した飛鳥山や、現在では西日暮里公園になっている道灌山などですが、いずれも当時の郊外で、都心にはそれほど緑は存在しませんでした。

 そこで長屋の目の前の路地で鉢植えの草花を楽しんだという訳ですが、その草花には流行があり、17世紀前半の寛永年間には「ツバキ」、後半の元禄年間には「ツツジ」、18世紀前半の享保年間になると「キク」、後半の寛政年間には「唐タチバナ」、そして19世紀の前半の文化文政年間には「アサガオ」「万年青(おもと)」「松葉蘭」が大人気でした。
 とりわけアサガオの人気は大きく、文化13年には浅草や上野で品評会が開かれ、珍しい花を咲かせるアサガオが好評で、町の中にも鉢に植えたアサガオを売り歩く商売が登場するほどになりました。

 江戸時代のアサガオは観賞用に育てられていますが、奈良時代末期から平安時代初期に遣唐使が中国から種子を持ち帰ったときは、薬用植物でした。
 アサガオは中国では「牽牛(けんぎゅう)」と言われていましたが、これはアサガオの種子が大変に高価な医薬品であり、これを贈られたときは、ウシを牽いて行って御礼にしたという故事によっています。
 ところが、16世紀末の中国の明時代の学者・李時珍(りじちん)が薬用植物の百科事典である「本草綱目(ほんぞうこうもく)」を出版し、それが日本に伝えられると、それと類似の百科事典を制作することが国内で活発になります。
 岩崎灌園(いわさきかんえん)の「本草図譜」や飯沼慾斎(いいぬまよくさい)の「草木図説」などを筆頭に数多くの図鑑が出版され、そこに描かれた薬用植物を徳川幕府や大名家は薬用植物として栽培する一方、庶民は観賞植物として栽培するということが流行するようになったのです。

 そのなかでもアサガオの人気が高かったのですが、パッと咲いてパッと散るサクラを日本人好むのと同様に、早朝に咲いて、昼前にはしぼんでしまうアサガオも日本人の気性に合ったからだと思います。
 ところがアサガオは変質し易い性質の植物のため、人々が向かった方向は珍しい色、形、模様の花を咲かせる変化アサガオでした。
 このような手間隙をかける品種改良の努力ができた背景は、天下太平であったため、江戸に滞在する旗本の次男や三男に仕事がなく、趣味として奇品と呼ばれる突然変異の珍しい植物を栽培しては、その優劣を競い合う花合わせを開催し、その結果を番付にして自慢していた影響です。

 さらにアサガオの第二次大流行となる19世紀中頃の嘉永・安政時代になると、成田屋留次郎など自ら朝顔師と名乗る植木屋が登場し、それらの人々が商売をしていた入谷周辺が江戸のアサガオ栽培の中心地になります。
 この伝統を引き継いでいるのが、今年も7月6日から8日に東京都台東区の入谷鬼子母神(真源寺)周辺で開かれた「入谷朝顔まつり」で、120軒の朝顔業者が店を並べ、3日間で40万人が訪れる盛況でした。
 そのような中で奇品と呼ばれるアサガオが次々と誕生し、例えば、1854年に「朝顔三十六花撰」という図版が刊行されていますが、そこには一見、ユリのようなアサガオやキクのようなアサガオが描かれています。
 色についても赤や青は当然として、黄色や黒色のアサガオが登場します。
 この黄色と黒色は途絶えてしまい、バラの世界の「青いバラ」と同様に「幻のアサガオ」とされてきました。
 「青いバラ」は遺伝子組み換えで2004年に実現しましたが、「黄色のアサガオ」と「黒色のアサガオ」は現在でも再現完璧な再現はできていないそうです。当時の水準の高さが伺えます。

 このような栽培植物の流行は日本に限ったことではなく、有名な例が17世紀前半にオランダで発生したチューリップの流行です。
 16世紀にオスマントルコ帝国からチューリップが伝わり、オランダの愛好家が花弁に珍しい模様の入ったチューリップを栽培し、その球根の取引が行われるようになります。
 とりわけ「センペル・アウグストス」とうチューリップは赤色と白色が縞模様になった花は大人気で、球根1個の値段が当時の平均年収を上回り、最後はアムステルダムの運河沿いの高級住宅の値段に匹敵するまでになりました。
 当然、破綻し、1637年に大暴落して数千人が破産したという史上最初のバブル事件になりました。
 江戸時代にも、寛政年間の唐タチバナの珍品は現在の値段で数千万円にまで高騰し、「金生樹(かねのなるき)」と言われた例がありますが、幸いにも投機は広がりませんでした。
 その背景は武士が珍品を売買の対象とするのは、はしたないと考え、将軍に献上したり、番付で上位になることで満足していたおかげです。

 夏休みになると、小中学生の自由研究としてアサガオ栽培や植物採集が選ばれることが多いと思いますが、このような歴史を知って栽培や観察をすると、研究も深まると思います。
 その研究のために絶好の機会が、東京の両国にある江戸東京博物館の開館20周年記念行事として開かれている「花開く江戸の園芸」展覧会で、9月1日まで月曜日を除いて開かれていますので、御覧になればと思います。





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