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論文

 明日7月12日は日本でラジオ放送が正式に始まった日です。
 そこで今日は日本のラジオ放送の創成期に関係するエピソードをいくつか紹介したいと思います。
 第一は日本が如何に素早く外国の技術を導入していたかということです。
 アメリカでアレキサンダー・グラハム・ベルが電話の特許を取得したのは1876年ですが、わずか2年後の1878(明治11)年にはベル式の電話機の国産1号機が制作されています。
 現在では2年後では遅すぎますが、明治初期の海外の情報は船便でしか到来しない時代ですから、如何に素早かったかがわかります。
 同様に1895年にグリエルモ・マルコーニが無線電信を発明しますが、翌年の1896(明治29)年には日本の逓信省電気試験所が研究を開始し、その翌年には無線電信機を開発しています。
 これを改良した国産の装置が大日本帝国海軍の駆逐艦以上の軍艦に装備され、日本海海戦の勝利に貢献しています。
 同様にラジオ放送にも素早く反応しています。
 アメリカやヨーロッパでは1918年に第一次世界大戦が終了するまでは民間の無線使用は禁止されていましたが、翌年から解禁となり、さらに翌年の1920年に、アメリカで世界最初の民間商業放送KDKAが始まっています。
 ところが日本では翌年の1921年に個人がラジオ放送の実験をし、さらに翌年の1922年には東京日日新聞社と東京朝日新聞社、1923年には報知新聞社がラジオ放送の実験をしているのです。

 そこで逓信省が1923年に「放送用私設無線電話規則」を公布し、放送局の開設を希望する事業者の出願を受け付けますが、28も応募があったので統合し、さらに民間企業ではなく公益法人にするように指導した結果、1924年に社団法人東京放送局、翌年に名古屋放送局、大阪放送局が設立されました。
 ところが東京放送局に大問題が発生しました。
 当時、アメリカ製のラジオ放送機が日本に1台しかなかったのですが、それを大阪放送局に先に買われてしまったのです。
 現在のように、すぐ発注して輸入というわけにはいかない時代ですから、大阪に先を越されては面子に関わると思った東京放送局は東京市電気研究所が持っていた無線電話用の送信機を借りて、現在の田町の駅前にある仮放送所を作り、3月22日午前9時30分に試験放送をします。
 この時の第一声は「あーあー、聞こえますか・・・JOAK、JOAK.JOAK、こちらは東京放送局であります」という内容でした。
 随分と間延びした第一声ですが、これには理由があります。当時の受信機の大半は鉱石受信機でした。
 僕も子供の頃は使っていましたが、これは方鉛鉱や黄鉄鉱の小片に尖った針を当てて感度のいい場所を探り当てる必要があったため、その時間を稼ぐための長めの音声を放送したのだそうです。

 この時に東京放送局総裁の後藤新平が「無線放送に対する予が抱負」という演説を放送していますが、これが以後のラジオ放送やテレビ放送の理念を示しています。
 第一は文化の機会均等:当時は現在以上に都会と地方の格差や所得による格差により、入手できる情報に大差があり、これを是正する。
 第二は家庭生活の革新:それまで家庭は食事と睡眠の場所であり、慰安娯楽は外部に求めていたが、ラジオ受信機を囲んで一家団欒が実現する
 第三は教育の社会化:急速に増えていくと期待されるラジオの聴取者に耳から知識を与え、新しい教育の機会を作る
 第四は経済機能の活性化:世界の経済事情だけではなく、株式、生糸、米穀の取引市況が即時に伝えられることにより経済活動が活発になる
という内容でした。
 現在では、この役割はテレビジョンや最近ではインターネットに移行していますが、ラジオは画期的な役割を期待されていたことになります。
 そして6月15日に現在はNHK放送博物館がある愛宕山に施設が完成し、7月12日に本放送が開始されたということになります。

 さらに現在のマスメディアの制度に及ぶ事情も登場します。
 できたばかりの放送局はニュースを取材する体制ができていなかったため、新聞社や通信社がニュースを提供していました。
 現在でも多くのラジオ局が地域の新聞社と密接な関係があるのは、出発時点からの体制だったのです。
 さらに大きな事件が発生します。
 東京、名古屋、大阪の3局体制で始まって1年も経たない1926年4月に逓信大臣が新しい社団法人に統一するという方針を発表し、日本放送協会が設立されたのですが、その理事に既存の放送局の理事や財界の代表とともに、逓信省の官僚が理事になるという天下りが実現したのです。
 既存の放送局の理事は反対したのですが、1926年8月に3放送局は解散して日本放送協会が成立し、逓信省から天下った役人が専務理事になり、やがて会長になります。
 現在の放送業界への天下りは、放送事業の出発とともに始まっていたということになります。

 1925年のラジオ放送の出現から25年が経過した1950年には民間放送局が出現するという変化を経て、現在では90年以上が経過しています。
 しかし、最近ではラジオ放送のように一斉に情報を提供する手段は劣勢になり、インターネットのように聴取者が自由に選択できる媒体へ移行し、それを反映するように雑誌、新聞、ラジオ放送、テレビジョン放送という四大媒体の広告収入も減少し、インターネットの広告収入が激増しています。
 ラジオ放送をはじめとするマスメディアが、今後、どのような方向を目指すのかは様々な戦略がありますが、1925年3月の後藤新平のラジオ放送の役割についての演説を見直すことにより、新しい方向が見出せるのではないかと思います。





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