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論文

 久しぶりに今日は何の日ですが、28年前の1984年の今日は島根県の出雲市斐川町神庭西谷(ひかわちょうかんばさいだに)という場所で、大量の銅剣が発見された日です。
 丘陵地帯の斜面から合計358本の銅剣が固まって発見され、2年後には、わずか7メートル離れた場所で銅鐸6個、銅矛16個が発見されました。
 なにしろ、その時点までに日本全体で発見された銅剣は合計して約300本ですし、銅剣、銅鐸、銅矛が1カ所に埋められていたのも最初の発見でしたから大騒ぎになりました。
 8月11日に報道機関に公開したときに集まった記者が400人、翌日に一般公開したときには1100人が見学に来たというほどでした。
 さらに1996年10月になり、荒神谷遺跡から南東に4kmほどの雲南市加茂町岩倉という場所で、1カ所に39個の銅鐸が埋められている遺跡が発見されました。
 これは一カ所からまとまって発見された銅鐸の数としては最大の例で、荒神谷の銅剣とともに、すべて国宝に指定されています。
 出雲地方が古代の日本で強大な勢力を誇った地域だということを証明する遺跡ですが、両者に共通する特徴があります。

 いずれの遺跡も見学に出掛けたことがありますが、このような集落から離れた山の斜面で、なぜ遺跡が発見されたかが疑問になる場所なのですが、理由は、どちらも農道を建設しようとして発見されたということです。
 荒神谷遺跡の場合は前年に出雲ロマン街道という名前の広域農道を建設するために調査をしていた調査員が古墳時代の土器の破片を発見していましたし、「神庭」と書いて「かんば」と読む地名には意味があるのではないかと考え、さらに周辺を調査したところ発見されたものです。
 加茂岩倉遺跡は農道工事のために建設重機で掘削をしていたところ、ガリという音がしたので調べてみたら、青い円筒形の物体の一部が見えたので、「こんな山奥にポリバケツを埋めた人間はだれだ!」と思って作業員が近付いたところ、銅鐸だったということです。

 このような例はたくさんあります。
 青森市の郊外にある「三内丸山遺跡」は縄文時代の大規模な集落の遺跡ですが、そこに青森県営野球場を建設する計画が策定されました。
 そこは17世紀の弘前藩の事情を記録した『永禄日記』にも土偶が出土したと書かれていますし、18世紀に東北地方を旅した菅江真澄の紀行文『栖家の山(すみかのやま)』にも、壷や土偶が見つかっていると書かれているので、念のため1992年に事前調査が行われました。
 その結果、1994年には直径1メートルもある栗の木の柱が6本発見され、どうも大規模な集落があったと分かり、野球場建設が中止になり、世紀の大発見になりました。

 東の三内丸山遺跡に対抗するのが西の吉野ヶ里遺跡ですが、これも似たような事情で発見されたものです。
 1970年代には県立高校の移転場所の候補になりましたが、遺物が出土していたので中止になっていました。
 それにも関わらず、80年代には佐賀県が企業誘致のために工業団地の開発を計画し、1982年から事前調査をしたところ、遺跡が大規模であることが分かり、工業団地は中止となり、100ヘクタール以上の国営歴史公園になりました。

 このような地方都市の郊外だけではなく、都会にも同じような例は数多くあります。
 現在、東京駅と有楽町駅の間に「東京国際フォーラム」がありますが、1996年に完成する以前は東京都庁があった場所です。
 ここは明治27(1894)年に妻木頼黄(つまきよりなか)設計の赤煉瓦2階建ての建物が置かれていましたが、1957年に丹下健三設計の新庁舎になり、さらに都庁が新宿に移転し、現在の状態になりました。
 江戸時代には土佐藩の上屋敷があることは分かっていましたので、東京国際フォーラムを建設するにあたって発掘調査をしたところ、建物の基礎や使用されていた陶器などの遺物が発見されました。

 このように建設工事をすることによって歴史的な遺構が発掘されるのですが、それは1950年に「文化財保護法」が制定されたとき、戦災復興の工事が爆発的に増え、埋蔵文化財が次々に消滅していくという危機感から地下も対象にしたからです。
 この制度では建築工事や土木工事によって遺跡が発見されると、発見者は工事を中断して文化庁長官に届ける必要があり、そうすると専門家が数年かけて調査することになります。
 したがって、遺跡の発見件数は景気が良いと増えるとも言われています。
 その景気のおかげで数多くの貴重な遺跡が発見されているのですが、問題は工事が長期間中断するだけではなく、調査をして記録をした後で工事を継続する場合には、調査費用が開発者の負担になることです。
 そうなると開発業者や工事業者は暗闇にまぎれて、ブルドーザーで遺跡を壊してしまうことを選択することが多く、日の目を見ないままに消えている遺跡も相当あると推測されます。

 中国では2010年9月に陜西(せんせい)省の道路工事で前漢の時代の遺跡の存在が分かった途端、付近の住民が押しかけて埋まっていた文化財が一晩で消えたという例や、山西省では警察官が公務執行として堂々と盗掘していたという例もあり、盗掘は10万人以上を雇用するビジネスになっているという報告もあります。

 それに比べれば日本はまだ進んでいるということになりますが、遺跡が発見されたとき届出制ではなく、政府が工事を取消すこともできる許可制になっているヨーロッパに比べれば遺跡の保護に関しては遅れているということになります。
 しかし、ある都市計画家は、技術が十分なかった時代ほど、人々は住みやすい環境に生活していたから、どのような遺跡も保存するということになると、後世の人間ほど劣悪な環境に生活することになると言っています。
 狭い国土に世界有数の人口密度で国民が生活している日本で、このジレンマをどのように解決するべきか、「斐川銅剣の日」にお考えいただければと思います。





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