TOPページへ論文ページへ
論文

 今年は豪華客船タイタニック号が沈没して100年目に当り、関係する行事が各地で開催されています。
 1912年4月10日にイギリス南部のサウサンプトン港を出航し、1週間かけてアメリカのニューヨーク港に到着する予定でしたが、14日の深夜に大西洋北部で氷山と衝突して沈没してしまいました。
 総乗船者数は2228名で、705名は助かったのですが、1523名が死亡するという世界最悪の海難事故でした。
 このときの様子は映画や書物などで詳しく紹介されていますが、今日は、このとき活躍した無線通信についてのエピソードを紹介したいと思います。

 無線通信は多数の先人の業績を基礎にして、イタリア人の技術者グリエルモ・マルコーニが実用になる技術を開発しています。
 1899年3月にイギリス海峡を越えてイギリスとフランスの間で通信を成功させ、1901年12月には大西洋を越えてイギリスとアメリカ大陸の通信を成功させ、その情報によって、多くの船が無線通信を利用するようになります。
 最初に無線通信が本格的に役に立ったのが、1909年に発生した大西洋での遭難事故です。
 1月23日にアメリカ大陸の海岸から230km沖の濃霧の海上で、800人の移民を乗せて航海していたイタリアの客船フロリダ号とアメリカのリパブリック号が衝突し、リパブリック号が遭難信号を発信します。

 この時代には遭難信号が切り替わる時期で、一般にはCQDという信号が使われていました。
 これはマルコーニが提案した信号で「Come Quick Distress(早く来い、遭難だ)」を略したものとされていますが、モールス符号でCがー・−・、Qがーー・ー、Dがー・・となり、長い上に聞き分けにくいという理由で、1906年からは万国無線電信会議でSOSに変更されていました。
 SOSはモールス符号で「・・・/ーーー/・・・」と聞き取りやすいし「Save Our Ship」と覚えやすいというわけです。
 しかし、1909年頃は、まだSOSが普及しておらず、リパブリック号はCQDを発信したのですが、アメリカ沿岸の通信所が受信し、付近を航行している船に無線で連絡したところ、バルチック号が30分後に到着し、2隻の船に乗っていた1700名全員が救助されるという快挙となり、一気に無線の重要さが世間に認められることになります。

 ところが翌年、さらに無線通信の威力が世界に知れ渡る事件が発生しました。
 アメリカ出身で1890年からイギリスで医師をしていたホーレー・ハーヴェー・クリッペンはベル・エレモアという芸名の歌手コラ・ターナーと再婚してロンドンで生活していましたが、1910年1月31日に自宅で開いたパーティの直後から夫人が消えてしまいます。
 クリッペンは「コラはアメリカへ帰った」とか「コラは死亡してカリフォルニアで火葬された」と説明していましたが、しばらくしてクリッペンが愛人エセル・ル・ネーヴと一緒に生活するようになり、エセルがコラの愛用していた宝石や衣服を身に着けていることを不審に思った友人が警察に通報し、警察が家宅捜査をしますが、証拠は発見できませんでした。

 ところが、この捜査でパニックになったクリッペンは。7月20日にベルギーのアントワープから客船モントローズ号に乗り、カナダのケベックに向けて逃亡します。
 しばらく以前であれば、これで高飛び成功となり、2人はアメリカ大陸で平穏に生活できたのですが、残念ながら無線通信が登場した時代でした。
 クリッペンはエセルを男装させて息子だと説明し、ロビンソン親子として乗船していたのですが、ヘンリー・ジョージ・ケンダル船長が不審に思い、無線で「一等船客のなかにクリッペンと思われる人物が乗船している。息子といわれる子供の仕草は疑いもなく女性のものである」と連絡します。
 その情報がイギリスの警視庁であるスコットランドヤードのウォルター・デュー主席警部に届きます。
 この警部はクリッペンの自宅の家宅捜査を担当した人で、2人の乗っているモントローズ号よりも高速のローレンティック号に乗船して先回りします。
 そしてモントローズ号がカナダのセントローレンス河口に到着した7月31日、モントローズ号に乗り込み、船上で2人を逮捕しました。

 無線通信が遭難救助ではなく、犯人逮捕にも活躍したのですが、もう一つ興味深い出来事がありました。
 当時の無線通信は暗号化もされていませんでしたので、だれでも受信可能でしたから、新聞社がモントローズ号の船長とローレンティック号のデュー警部との交信を傍受して毎日のように記事にしたので、世界が注目する追跡事件となり、知らぬは2人だけという事態でした。
 イギリスに連行された2人は裁判にかけられ、クリッペンは無罪を主張しますが、自宅の壁の中から妻のものと思われる遺体の一部が発見され、愛人のエセルは無罪でしたが、クリッペンは死刑判決となり、11月23日に絞首刑となります。

 クリッペンはマダムタッソー館で蝋人形として展示されるほど悪名高い人物になりましたが、最近になって新しい展開になりました。
 アメリカに生活するクリッペンの子孫が殺された妻のコラの子孫を発見し、ミシガン大学の法医学チームが、その子孫のDNAとロンドンに保存されていたコラの遺体の一部のDNAを比較したところ、100%別人であり、しかも遺体は男性であることが分かったという情報があります。
 そこで遺族はイギリス女王に恩赦を要求しているそうですが、世紀の冤罪ということになるかもわかりません。
 この事件の2年後にタイタニック号の沈没が発生するのですが、そこでの無線通信の活躍は映画や小説でご存知の通りです。





designed by BIT RANCH / DEGITAL HOLLYWOOD
produced by Y's STAFF
Copyright(c) Tsukio Yoshio All Rights Reserved.