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論文

 最近、やや収まりましたが、しばらく前はTPP(環太平洋経済連携協定)参加について賛否が激論されていました。
 政府がTPPの議論に参加することを明確にしたのは、国内的にはほぼ1年前の昨年11月15日に菅総理が「平成の開国と農業の再生を両立させるため」に農業構造改革推進本部の設置を明言したときですし、対外的には、今年の1月29日に、やはり菅総理がスイスのダボスで毎年開催されるダボス会議において「私は今年「第三の開国」を実現することを大きな目標に掲げました」と演説したときからだと思います。
 第三の開国という意味は、第一が1858(安政5)年7月4日というアメリカの独立記念日にアメリカと「日米修好通商条約」を締結したとき、第二が1945年に太平洋戦争に敗戦し、アメリカが占領軍として乗り込んできたとき、そして第三が現在のTPPに参加するかどうかの決断ということになります。

 第二の開国は戦勝国と敗戦国という不平等な関係での開国ですが、第一の開国は独立した国家同士で条約を締結したにもかかわらず、「日米修好通商条約」は不平等条約と言われてきたように、アメリカに断然有利な内容でした。
 そして「日米修好通商条約」と、これから日本が参加する可能性の高いTPPを比較してみると、かなり似た点があります。
 TPPへの参加は貿易立国の日本にとっては重要なことですが、危惧される面もあるために賛否が激論されているわけです。

 そこで温故知新という言葉もありますので、「日米修好通商条約」の内容を振返りながら、TPPについて考えてみたいと思います。
 日米修好通商条約は1858年に締結されますが、その3年前の1855年には安政大地震が発生し、江戸で死者4300人、倒壊家屋1万4000戸という大災害になりました。
 それと前後して、前年の1854年にはペリー艦隊が二度目の来航をして開国を要求し、翌年の1856年には初代駐日領事としてタウンゼント・ハリスが下田に駐在し、条約締結の前年になる1857年にはハリスが江戸を訪問して13代将軍徳川家定に謁見するという、騒がしい時期でした。
 偶然かも知れませんが、TPPが数年後に発動することになると、地震と開国とは縁があるのかもしれません。

 日米修好通商条約は14条からなる条約ですが、不平等条約といわれるように、日本にとって不利な内容でした。
 まず治外法権を認めてしまったことです。アメリカ人が日本人に対して法を犯したときはアメリカの領事裁判所で裁き、日本の裁判権が及ばないことが第6条に記されています。
 これは一川防衛大臣の失言で話題になった「日米地位協定」として形を変えながら、第二の開国以後も継続しています。

 第二は貿易の関税率は日本の主張とは違う比率に設定され、しかも、その変更は両国の協定によって決定され、日本に自主権のない制度になってしまいました。
 TPPでは例外を除いて、すべて関税無しという原則で議論されていますし、野田総理の主張するほど簡単に例外が認められないと予測されていますから、これも自主権がないのに近い状態です。

 第三は最恵国待遇がアメリカには認められ、日本には認められていないという一方的な内容になっていることです。
 TPPには、このような条項はありませんが、それ以上に強力な規制が議論される可能性があります。
 アメリカ、カナダ、メキシコが締結している北米自由貿易協定(NAFTA)には盛り込まれていますが、ISD(インヴェスター・ステート・ディスピュート・セトルメント:投資家対国家の紛争解決条項)と呼ばれる内容です。
 例えば、アメリカの企業が日本に乗り込んでビジネスをしようとしたとき、日本の国内法に不都合を感じたときには、ISD条項を理由に日本政府を相手に国際投資紛争解決センターに訴え、損害賠償を請求できるのです。
 日本の企業も同様に提訴できるわけですが、国際投資紛争解決センターは世界銀行傘下の組織ですから、勝負は目に見えているという意見もあります。

 実際に発生した例を紹介しますと、メキシコに乗り込んできたアメリカ企業が有害物質を埋立てようとしたので、メキシコ政府が許可を取消したところ訴えられ、13億円を賠償させられました。
 また、カナダに乗り込んだアメリカのガソリン会社がアメリカでも禁止されている神経を冒す物質を混入しようとして禁止され、不服としてカナダ政府が訴えられ、カナダ政府が8億円を支払うという事件が発生しています。
 この紛争は200件を超えていますが、審査には再審制度はなく、しかも国内法に優先します。
 ところが、11月11日の衆議院予算委員会で、この問題を質問された野田総理は「これについては国内法で対応できるよう交渉します」と回答しましたが、「条約は国内法より上位にあるのに、どう対応するのか」と指摘されて回答できなくなり、議事が何度も中断したということがありました。

 ご存知のように、日米修好通商条約はハリスの圧力により大老の井伊直弼が孝明天皇の勅許をえないままに締結してしまい、この不平等条約を改正するために明治政府は鹿鳴館を建設して欧米の風俗を流行させる一方、多数の政治家が欧米諸国と交渉するという膨大な努力の結果、1911年にワシントンで日米通商航海条約が締結されて、ようやく解消されました。
 半世紀にわたる明治政府の大半の努力は、この不平等条約の改正に費やされたとさえ言われるのです。
 一方、日本が世界有数の大国に発展できたのは第一と第二の開国により、貿易によって経済を発展させることが出来た効果ですがから、第三の開国も必要です。しかし、問題もあるということを温故知新で検討してほしいと思います。





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