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論文

 今日は山田秀三(ひでぞう)という方の命日です、と言ってもほとんどの方がご存じないと思います。
 簡単に経歴をご紹介しますと、1899(明治32)年に東京に生まれ、一中、一高、東京帝国大学法学部を卒業という戦前の典型的なエリートで、卒業後は農商務省、商工省、軍需省などに政府高官として勤務し、戦後は1949年に設立された北海道曹達株式会社の初代社長、会長、相談役を務められたという方です。
 そして今日7月28日は、この山田さんが1992年に92歳で亡くなられた命日で、それを記念して「地名の日」となっているのです。

 戦前はエリート官僚で、戦後は国策会社の初代社長として経営者としても成功された方が「地名の日」に関係するかと不思議に思われると思います。
 それは、山田さんが1941年に仙台鉱山監督局長に就任して仙台に赴任し、東北地方の地名に興味を持ち、さらに戦後は苫小牧に本社のある北海道曹達株式会社の社長になったのを契機に北海道のアイヌ語の地名に関心を持ち、休日を利用しては現地調査をされて、地名の由来を調べられたからです。
 その調査結果は、4冊の『アイヌ語地名の研究』にまとめられ、江戸時代に6度も蝦夷地といわれた北海道や北方4島を探検した松浦武四郎の記録、明治になって政府の命令で北海道全域の地名をまとめた永田方正(ほうせい)の『北海道蝦夷語地名解』とともに、現在でも北海道の地名辞書の古典となっています。
 そのような業績のある山田さんの命日を記念したのですが、偶然にも地名研究家として有名な谷川健一さんの誕生日も本日というわけです。

 アイヌ語だけではありませんが、地名というのは土地の地形などを示す言葉が多く、いくつか北海道の例をご紹介します。
 「知床」はアイヌ語で「シリエトク」で、土地の突出した場所という意味ですから、世界自然遺産となった知床半島だけではなく、礼文島にも白老町にも、樺太(サハリン)にも、青森県の下北半島にも残っています。
 「札幌」はいくつかの説がありますが、山田さんは「サッポロペツ」で乾いた大きい川という意味が妥当だと説明しておられます。札幌を流れる豊平川は渓谷から扇状地に流れ出て多数の川に分かれるので、乾期になると広い河原が現れるからということです。
 「富良野」は「フウラヌイ」で、臭いのある所という意味です。これは活火山である十勝岳から硫黄の溶けた水が流れてくるので、このような名前が付いたという訳です。
 この夏休みに北海道旅行をされる方も多いと思いますが、地名の意味を知ると、より深く地域のことを知ることができると思います。

 実は、今日ご紹介したいのは、北海道や東北地方だけではなく、日本全体にアイヌ語の地名が残っているという話です。
 2008年6月に「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が衆参両院で全員一致により採択され、アイヌ民族が古くから日本列島全域に生活していたということが、ようやく認められました。
 そうであれば、地名にもアイヌ語が残っているだろうというわけです。

 これは専門家の間で一致している学説ではありませんが、いくつかの例を紹介したいと思います。
 東京の古い地名は「江戸」ですが、アイヌ語に由来するという説があります。
 アイヌ語で人間の「鼻」は「イト」と言いますが、これと形が似て出っ張っている「岬」も「イト」と呼ばれていました。
 現在の山手線の神田、東京、新橋の東側は江戸前島といわれ、徳川家康が日比谷入江を埋立てるまでは半島でした。
 そして「エト」と「イト」はアイヌ語では同音なので、一帯は「エト」と呼ばれていたというわけです。

 「渋谷」は渋い水の流れる谷という意味のようですが、アイヌ語で泉の岸という意味の「シンプイヤ」か、激流の岸という意味の「スプヤ」が語源という説もあります。
 関東地方では、埼玉県の「浦和」は、アイヌ語でも「ウラワ」で、砂浜を渉る場所という意味で、6000年から8000年前の縄文海進の時代には、浦和まで海が迫っていたことを示しています。
 「博多」は、アイヌ語の「ハクウタ」で「浅い浜」、「伊勢」は古くは「伊蘇」と呼ばれたそうですが、アイヌ語で「イソ」は獲物を意味し、海産物の獲れた場所だったということになります。
 高知県の四万十川の四万十は「シマムタ」、とても美しい川という意味ですから、古くから名前のような清流だったことが分かります。
 アイヌ民族は文字を持たず、書き残された記録がありませんので、ここにご紹介した説明が正しいかどうかは証明できませんが、開拓され地形が変わってしまった場所でも、古代にはどのような場所であったかを想像させる力があります。

 しかし、合理的精神と言う厄介な思想が、地名を抹殺してきました。
 東京都中央区には、大正時代までは190の町名がありましたが、大正12(1923)年の関東大震災の後の復興整理事業で57と一気に3分の1以下になり、昭和37年の「住居表示に関する法律」で37に減らされ、90年の間に153も町名が消えてしまいました。
 例えば、徳川家康の外交顧問であったウィリアム・アダムス、日本名は三浦按針が屋敷を拝領していた場所は按針町でしたが、現在は日本橋室町1丁目の一部になり、銀座から京橋にかけては出雲町や因幡町など、家康の江戸開発のときに協力した藩の名前の町名がありましたが、これらも消えてしまいました。
 それは寂しいというだけではなく、場所の過去を抹消してしまうことであり、もう一度見直すべきだと思います。





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