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論文

 現在の国難ともいうべき災害に対処するにあたり、その最高責任者である総理大臣のリーダーシップについて、多くの問題点が指摘されています。
 この番組でも、参考になればと関東大震災後の復興にリーダーシップを発揮した東京市長後藤新平の業績をご紹介しましたが、今日は江戸時代に政治の中心であった江戸が壊滅状態になったときにリーダーシップを発揮した人物を紹介したいと思います。

 名前は保科正之(ほしなまさゆき)、徳川幕府の四代将軍徳川家綱の補佐役をした人物です。
 正之は二代将軍徳川秀忠の四男で庶子として生まれ、三代将軍徳川家光の異母弟に当ります。
 普通は異母兄弟というと仲が悪いことが多いのですが、家光は正之を可愛がり、信濃高遠藩(3万石)の藩主から次々と引き立て、寛永20(1643)年には陸奥会津藩(23万石)の大名にします。
 その間も、家光が京都で明正(めいしょう)天皇と後水尾上皇に謁見するときもお供を仰せつかるなど重用されます。
 その家光は慶安4(1651)年に重い病になり、臨終間近の枕辺に正之を呼び、わずか11歳で四代将軍になる家綱のことを「幼少の大納言、其の方を頼むぞ」と伝えています。

 4月20日に家光が逝去すると、大老の酒井忠勝、老中の松平信綱、阿部忠秋ととともに、遺言により幕府維持の責任者の一人になります。
 当時の日本はかなり不安定な時代でした。二代将軍秀忠と三代将軍家光が多数の大名の改易を断行した結果、改易になった藩の家臣は失業して浪人になりますから、世間が不穏になります。
 そこで早速、7月23日から25日にかけて「慶安の変」、通称「由井正雪の乱」という現実の問題が発生します。
 これは事前に情報が漏れて何とか防ぎますが、この事件を契機に、武断政治といわれた強硬策を改め、文治主義に転換します。

 そこで正之が、どのような対策を行ったかを調べてみますと、平時の政策として実行した有名な事業が江戸の水不足を解決する玉川上水の開削です。
 一般には玉川上水は玉川兄弟の偉業とされていますが、玉川兄弟の最初の計画は失敗しており、幕府が計画を変更しますが、その全体を統轄したのが正之というわけです。

 そしていよいよ今回の国難に匹敵する事件が江戸に発生します。振袖火事ともいわれる明暦の大火です。
 明暦3(1657)年1月に本郷にある本妙寺から出火し、80日間、一滴の雨も降っていなかった江戸は丸3日間でほとんど焼け尽くされ、死者は10万人ともいわれる大火災となりました。
 ここで正之が英断を下したいくつかの業績があります。
 まず有名なものは浅草の隅田川沿いにある幕府の米蔵に火が及ぼうとしていたときの処理です。
 当時の消防組織である、幕府直轄の定火消(じょうびけし)と各藩の大名火消だけでは人手が足りず、だれもが消火は不可能と考えていました。
 そこで正之が、町民が米蔵の消火に参加すれば、そこの米を持ち出しても構わないとお触れを出したところ、町民が駆けつけて消化し、持ち出した米は被災地の救助米になりました。

 次の英断が、震災後、幕府の貯蓄を16万両放出し、旗本ご家人にも町民にも救援金として分け与えたことです。
 当時の幕府の財政規模は14万両程度ですから、一年分の政府支出に相当する額を財政出動したことになります。
 当然、反対する家老などもいたのですが、正之は「官の貯蓄はこのようなときに使い国民を安心させるためのもので、積み置いただけでは蓄えがないのに等しい」と言って断行します。
 そこで幕府の役人は諸大名から借財して急場を凌ごうとしますが、正之は「借財するのではなく、専心倹約して凌ぐべきである」と主張して借り入れを許しませんでした。

 これ以外にも江戸の大改造を行い、市街を再編し、千住大橋のみであった隅田川に両国橋や永代橋を架橋し、防火のために火除地や広小路を設けるなども実施します。
 まだまだ業績は数多くあるのですが、なぜ正之が非常事態のなかで、様々な英断が可能であったかを調べると、一言で言えば、「我欲」がなかったからです。
 まず、家綱の後見をすることになったときに、家元の陸奥会津藩の家老たちを江戸に呼び「自分は幕府の政策に心を注ぐので、藩の面倒を見ることはできない。したがって家老たちで藩を運営し、遂行した後で連絡するように」と伝え、家元に帰らず、家光の付託に全身全霊で対応する準備をします。
 また、これらの輝かしい仕事も、主君である家綱の名前で行い、外部にはほとんど名前を出しませんし、後光明(ごこうみょう)天皇が中将の位に任じようとしたときも辞退しているほどです。
 また、出生は徳川の一族ですから、幕府から松平姓を名乗り、家紋も葵の御紋にすることを何度も勧められますが、養育してくれた保科家への恩義を忘れずに保科姓で生涯を通しています。
 そのために、同輩の嫉妬心に妨げられることもありませんでした。
 そして幕末から明治にかけての戊辰の役で、会津藩は松平容保が幕府側について賊軍になりますが、それも正之が徳川家から受けた恩義を忘れないことを家訓にしていた結果です。

 現在の政治家や官僚や企業経営者に対し、どこが参考になるということは申し上げませんが、国難に無私の精神で臨むという気概を、上に立つ人々が少しでも感じていただければ、日本も再生できるのではないかと思います。





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