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論文

 東日本大震災から1ヶ月以上も経過した4月14日に「東日本大震災復興構想会議」の最初の会合が開かれました。
 そこで話題になるのが、1923年に首都東京を襲った関東大震災の後に設立された「帝都復興院」です。
 とりわけ現在の菅総理と比較されるのが、関東大震災の翌日に内務大臣に就任し、帝都復興の指揮を執った後藤新平です。
 そこで、今日は後藤新平が何をしたかをご紹介したいと思います。

 最初に後藤新平の簡単な経歴をご紹介しますと、安政4(1857)年に現在の岩手県に伊達家の家臣の家に生まれ、苦労して医者になります。
 ドイツに留学しロベルト・コッホの下で細菌学を研究し、帰国後、35歳で内務省の衛生局長になり、日清戦争の帰還兵の検疫業務で手腕を発揮し、陸軍参謀の児玉源太郎に認められ、児玉が第4代台湾総督になったときナンバー2の民政長官として台湾に同行します。
 その後、1906年に50歳で南満州鉄道初代総裁となり、有名な(満鉄)調査部を設立して実力を発揮し、以後、1908年に逓信大臣、1916年に内務大臣と鉄道院総裁、1918年に外務大臣を歴任し、1920年に東京市長に就任します。
 大臣から市長にというのも異例ですが、当時の東京市役所は伏魔殿と言われ、20数名の市会議員が汚職で逮捕される異常事態で、後藤しか治められないと、財界の大物渋沢栄一や原敬首相が懇願した結果です。

 東京市長は1923年4月に辞任していたのですが、9月1日に関東大震災が発生し、翌日組閣された第二次山本権兵衛内閣で内務大臣に就任します。
 ここから今回の復興とも関係する話題になるのですが、就任した日の夜に自宅で帝都復興の4方針をまとめて発表し、さらに6日に「帝都復興の議」、つまり提案書を閣議に上申します。
 まず4方針は 1)遷都はしない 2)復興費は30億円 3)欧米の最新の計画を導入 4)地主の不当利益を許さない という内容です。
 当時の国家予算が15億円程度でしたから、30億円は現在に換算すれば160兆円以上という大構想でした。
 帝都復興の議の主要な内容は 1)帝都復興院を設置 2)復興事業は国費 3)焼失区域全域を買収し整理後に払い下げる というものです。
 そして震災から4週間後の9月27日に帝都復興院が設立され、院長に就任します。

 原子力が専門という現総理が迅速な対応策を打ち出せないのに、専門は医師である後藤新平が一気に復興計画の方針を策定できたのは、実は当時の日本で都市計画の実務にもっとも通じていたのが後藤新平だったからです。
 まず台湾の民政長官のとき、住民の非衛生な生活状態を調査し、上水道や下水道など社会基盤の整備の重要さを痛感していました。
 また満鉄総裁だったとき、大連、奉天、撫順、長春などの鉄道駅の周辺に新都市を作る事業を推進しており、実際の都市建設を体験しています。
 さらに鉄道院総裁のとき、東京の都市改造を構想しますが、制度が整備されていないことを痛感し、佐野利器(としかた)、内田祥三(よしかず)など、後に東京大学建築学科教授となる学者を集めて「都市研究会」を作って会長に就任し、1919年に「都市計画法」と「市街地建築物法(現在の建築基準法)」を制定し、日本の都市計画の基本となる法制度を整備したのです。
 そして東京市長時代には8億円の「東京市制要綱」という東京改造計画を発表しており、下地はありすぎるほどの人物でした。

 自身で制度を策定し、わずか関東大震災の2年前に東京改造計画を立案していた経験、そして主要な人材がほとんど後藤新平の息のかかった人物という条件が重なり、1週間後の9月9日には41億円の復興計画の素案が作成され、12月に復興計画の詳細が確定するという早業でした。
 ところが、ここから政局が始まり、計画が大幅縮小になっていきます。
 財政事情から41億円の理想案が10億円の最小案になり、さらに予算審議で5億7500万円になり、最後にそこから2割削減されて4億6000万円になり、帝都復興院の事務費が全額削除ということになりました。
 当時の多数派であった政友会は地主層が支持基盤であったため、焼失区域全域の国庫による買上げに執拗に反対したからです。
 そこまで面子を潰されれば辞任するべきという強硬論を側近が進言しますが、後藤は自分以外に復興事業を遂行できる人間はいないという自負から屈辱を甘受します。

 結局、実現したのは中央に幅広いグリーンベルトのある「昭和通り」、日本初の川沿いの公園である「墨田公園」、小学校の不燃校舎、「同潤会アパート」などになってしまいました。
 これについて2つの歴史的意見を紹介したいと思います。
 当時、後藤が顧問としていたアメリカのコロンビア大学の教授チャールズ・ビアードは後藤に手紙を送り「世界の目は皆、後藤の上にある。1666年ロンドン(大火の復興)計画を立案したクリストファー・レンの名を歴史家は記録するが、その大計画の執行を妨害した偏執小心な国会議員の名は忘れ去られている。貴下がかくの如き計画を作成したことは、千年後の歴史家も貴下を祝福するであろう」

 そして1983年に昭和天皇は「震災のいろいろな体験はあるが、一言だけ言っておきたいことは、復興に当って後藤新平が膨大な復興計画を立てた。もしそれが実行されていたら、東京の戦災は非常に軽かったと思い、後藤の計画が実行されなかったことを残念に思う」





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