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論文

 これまで「法隆寺」「桂離宮」「出雲大社」など、日本の名建築に潜む秘密を御紹介してきましたが、今日は意外な名建築家・豊臣秀吉をご紹介したいと思います。
 秀吉というと普通は武将と解釈されていますが、日本でもっとも多数の城を築いた建築家でもあります。
 日本で建設された城の数は、簡単な砦のようなものも含めると1600年頃が最大で2万5000は存在していたと推定されていますが、普通に我々が城という言葉で思い浮べるような建物になると3000程度になります。
 秀吉は、この日本にもっとも城が多かった戦国時代に活躍した武将ですから、当然、城の造営に関係する機会が多く、朝鮮半島に出征した「文禄・慶長の役」のときに現地で建設した城も含めると100近くの城を建設しています。
 当時の城の30分の1に関係していたことになりますから、城の建築の専門家だったわけです。

 秀吉は信長の草履取り時代に、草履を背中に入れて暖めていて気に入られたとか、山に生えている立木の数を数えるために、短く切った縄を多数用意して、その縄を手下に立木一本一本に巻かせて、残った縄の数をもとに、立木の数を数えたなど、機転のきく人間でした。
 したがって、城の建設においても独特の方法を開発しており、それらのなかには現在の建設業にも通ずる方法があります。
 第一はプレファブ建設の元祖ということです。
 東海道新幹線の岐阜羽島駅の近くに、墨俣城という城があります。
 これは1991年に「墨俣一夜城歴史資料館」として復元された建物ですが、その名前からも分かるように、元来は一晩で建設されたという伝説のある城です。
 なぜ一晩で建てる必要があったかをご説明するためには、16世紀後半の東海地方の情勢を知る必要があります。
 当時の天下を平定しようという武将は京都に上って朝廷に認めてもらう必要がありましたが、尾張にいた織田信長も、それを目指していた一人でした。
 尾張から京都に行くためには美濃を通過する必要がありますが、そこには斎藤竜興(たつおき)の居城である稲葉山城があり、これを攻略しなければ通過できません。
 この城は現在では金華山といわれる標高329mの急峻な山の頂上にあり、前面は長良川ですから難攻不落で、信長は数回攻撃しますが、敗退続きでした。
 そこで稲葉山の対岸にある交通の要の墨俣に城を築いて攻撃の体制を整える必要があったのですが、ここは木曽川、長良川、揖斐川という大河が集まる湿地帯であるうえ、建設作業でも始めようものなら、斎藤竜興の軍勢が攻めて来て容易でははありませんでした。
 信長は家臣の佐久間信盛(のぶもり)に人夫5000人、兵隊3000人を与えて建設を命じますが、3日で敗退し、さらに後任の柴田勝家も失敗します。

 そこで名乗り出たのが秀吉で、1566年のことですが、与えられた兵力は75名の鉄砲隊と205名の野武士だけでした。
 そして実際は一晩ではなく、4日間から7日間で建設してしまうのですが、その秘密がプレファブ工法だったという訳です。
 まず2ヶ月前から木曽川の上流で1万3750本の木材を切り出して筏に組んで木曽川を流して下流で川岸に引き上げ、そこで簡単に組立てられるように川岸で柱や梁に加工しておき、それを200艘以上の船で墨俣に運び、鉄砲隊に守られながら数日で建設したという訳です。
 この方法は1590年に小田原の早川に秀吉が建造した石垣山一夜城をはじめ、何カ所かで利用されています。

 第二はジョイントベンチャーの元祖です。
 現在の大規模な工事では、何社かが共同で工事をするというのが普通で、ジョイントベンチャーと言われますが、この元祖も秀吉といわれています。
 東海道新幹線で名古屋駅を出て京都に向かうとすぐ、右側にお城が見えます。これは1989年に復元された鉄筋コンクリートの清洲城ですが、ここは戦国時代の交通の要で、織田信長の領地の主要都市でした。
 1562年に大風で塀が200m近く倒れてしまうのですが、これを瞬く間に修復したのも秀吉でした。
 秀吉は修復箇所を10区画に分け、大工仲間を10組に分けて競争させたというわけです。
 これは「清洲城割普請」と名付けられていますが、秀吉が天下を取った後に造営した大坂城や伏見城でも、各大名に分割して仕事をさせ競争させる「丁場分け」という手法として定着しています。

 第三は都市計画でも優秀な能力を発揮したことです。
 秀吉が信長から最初に与えられた領地は当時、今浜と呼ばれた現在の滋賀県長浜市です。
 この場所に領地を与えられると、北陸本線の長浜駅から12kmほど北にある標高230mの山頂にある小谷城を本拠にするのが常識でした。
 ところが秀吉は琵琶湖に面した場所に城を築きます。それは中山道と北國街道が交差し、かつ水路で京都に行くことのできる水陸交通の要であったからです。
 しかし、平らな場所ですから防衛を厳重にする必要があり、城の周囲をすべて水路にし、城の北と南に曲輪という家臣の住宅を建設して防備を固めるという計画を策定しています。

 これら秀吉が工夫した技術は1615年に大坂夏の陣で徳川家康が豊臣一族を滅ぼした直後に発令した「一国一城」の制度によって、城の数が一気に170に減ってしまい、皮肉なことに豊臣家の滅亡とともに応用されることはなくなりましたが、現代の建設業に甦っているというわけです。





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