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論文

 日本建築の秘密シリーズとして、これまで桂離宮、出雲大社、法隆寺をご紹介してきましたが、第4弾として世界遺産にもなっている「日光東照宮」の秘密を探ってみたいと思います。
 1933年5月に日本に亡命してきたドイツの建築家ブルーノ・タウトは桂離宮を「泣きたくなるほど美しい」と絶賛したことを、以前ご紹介しましたが、2週間後に日光東照宮を訪れたタウトは「すべてが威圧的で少しも親しみがない」「いかものだ」「建築の堕落だ」と酷評します。
 「いかもの」とか「建築の堕落」というのは個人の見解としても、「威圧的」というのはもっともで、桂離宮は零落した貴族が晩年を過ごす別荘として建てた建物ですが、日光東照宮は権力の絶頂で亡くなった大御所・徳川家康を祀る神社として幕府が建造した建物ですから、当然、威圧的にならざるを得ない事情があったのです。

 1603年に征夷大将軍となって徳川幕府を創設した徳川家康は、2年後には三男の秀忠に征夷大将軍を譲り、自身は1607年に静岡にある駿府城に移って「大御所」となり院政を敷きます。
 ところが1616年正月にタイを胡麻油で揚げてニンニクをすり下ろして食べるという料理を食べ過ぎて腹痛になります。
 これは食あたりではなく、胃癌が悪化したせいではないかと推測されていますが、死期を悟った家康は、4月2日に枕元に南光坊天海僧正、南禅寺金地院以心崇伝という2人の僧侶と、側近の本多正純を呼び、遺言を伝えます。
 その内容は「我が命が終わったら、遺骸は久能山に納めて神にまつり、葬礼は僧正寺(ぞうじょうじ)にて行い、三河の大樹寺に位牌を立て、一周忌が過ぎた頃、日光に小さい堂を建て、我が霊を勧請せよ。関八州の鎮守になろう」というものでした。そして2週間後に亡くなります。

 そこで、まず遺骸を久能山に祀ることになるのですが、徳川家康を神仏習合神道の「権現」とするか、唯一神道の「明神」とするかが論争になります。
 当時は神道の葬儀は唯一神道が普通であったので、「大明神」が妥当ではないかということになりかけたのですが、天海が「大権現」を主張します。
 あまりに固執するので将軍秀忠が理由を問うと「明神は不吉である。豊国大明神を見よ」と一言つぶやき、これで一気に決着しました。
 前年の1615年、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡していますが、その始祖である豊臣秀吉は「豊国大明神」として豊国神社に祀られていたのです。
 この一件で天海僧正が主導権を握り、家康の神号を関東の天照大神に匹敵するという意味で「東照大権現」とします。

 家康の遺言にある「勧請」という意味は、神仏の分身を移動させるということなので、久能山から日光に自分の霊を移すという意図だったのですが、天海僧正は翌年、黄金の神輿に家康の遺骸を納め、1300人の武士を随行させて20日間かけて派手な行列で日光東照宮に移動させます。
 ここから天海の陰謀説が登場するのですが、カリスマであった初代の家康が亡くなって、まだ不安定であった徳川幕府を維持するためには、世間に徳川幕府の権威を見せつけるデモンストレーションが必要であり、それを慮った天海が行った行事というほうが妥当ですし.タウトの言うように東照宮が威圧的なのも治世のために必要だったのです。

 もう一点、家康の遺言に出てくる久能山、大樹寺、日光という地名には重要な意味が隠されています。
 久能山から真西、つまり極楽浄土がある方向に直線を引くと、三河の鳳来寺を通って岡崎の大樹寺に至ります。
 鳳来寺は家康の母親の於大の方(おだいのかた)が祈願して家康が誕生したという寺であり、大樹寺は徳川家の菩提寺なのです。
 次に久能山から北東の富士山の頂上に線を引いて延長すると日光山に至り、一方、江戸城から北極星の方向に線を延ばすと、これも日光山に至るという関係になります。これは陰陽道を反映したものです。

 この陰陽道は境内の建物の配置にも反映されています。
 有名な国宝の陽明門と、その前にある鳥居の中心を結んで延長すると、北極星の方向を向いていますし、本社全体も同様です。
 ところが、一方で、桂離宮の配置と同様に東照宮の配置には西洋の技法が見え隠れしています。
 例えば、表門を入って左折し、三猿の彫刻のある神厩舎のほうに曲がると、通路が先細りで距離があるように見える透視図効果を演出しています。
 敷地が山の斜面のため、そもそも透視図効果があるのですが、建物も表門、陽明門、唐門と奥に行くほど小さくなり、それを強調しています。
 また、陽明門や唐門の立面の各所にも黄金比が採用されていますし、建物の配置にも黄金比が取り入れられています。

 なぜかということですが、桂離宮の造営に関係した人々と、東照宮の建設に関係した人々が重複しているからです。
 桂離宮の工事が始まったのは1615年ですが、日光東照宮が建設され始めたのは1616年で、ほとんど同じ時期です。
 そして日光東照宮のプロデューサーともいうべき天海僧正と以心崇伝の二人ですが、崇伝は桂離宮を作った智仁(としひと)親王と茶の湯仲間、天海は智仁親王の甥にあたる後水尾上皇と深い関係にありました。
 また、建設の総指揮を摂ったのは近江大工の甲良宗広ですが、八条宮家と近い関係にあり、東照宮の彩色工事の総監督の狩野探幽は桂離宮の襖絵を描いており、東照宮の陽明門の「東照大権現」の額と桂離宮の松琴亭の「松琴」の額は、どちらも後陽成天皇など重複した人間が関係しているのです。

 ブルーノ・タウトは両者を対極にある建物のように評価しましたが、実は根底には共通点が多々あるということで、そのような知識を持って見学すると、さらに深く鑑賞できるのではないかと思います。





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