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論文

 今日は8月19日の語呂合わせで「俳句の日」ですが、俳句が国際芸術になりつつあるという話題を紹介させていただこうと思います。
 俳句は鎌倉時代の連歌から出発し、江戸時代、五七五の上の句をだれかが詠むと、七七の下の句を別の人が詠み、それを続けていくという形式に発展し、さらに芭蕉が上の句だけを独立させて俳諧となりました。
 そして明治時代になり、正岡子規が登場して、江戸時代の俳諧を月並俳諧と呼んで批判し、新たな文芸運動を起こし、それを俳句と名付けたというのが俳句の簡単な歴史です。

 この伝統ある俳句に戦後になって激震が襲いました。
 戦後間もない昭和21年に月刊誌『世界』の9月号に、東北帝国大学法文学部助教授の桑原武夫が「第二芸術論・現代俳句について」という文章を発表したのです。
 「日本の明治以来の小説がつまらない理由の一つは、作家の思想的社会的無自覚にあって、そうした安易な創作態度の有力なモデルとして俳諧がある」と、高浜虚子などの大家が主宰する家元俳句を厳しく批判しました。
 後に文化勲章まで受賞する大学者も、当時は42歳の助教授で血気盛んであり、それを実証するという意気込みで、当代の俳句の名家と言われる10人の句と、素人5人の句を、すべて名前を伏せて並べ、どれが大家の句かを当ててほしいと書いたのです。

 例えば「咳く(しわぶく)とポクリィとベートヴェンひびく朝」(中村草田男)「爰(ここ)に寝ていましたという山吹生けてあるに泊り」(荻原井泉水)「腰立てし焦土の麦に南風荒き」(臼田亜浪)などの大家の俳句を挙げ、「私には言葉として何のことかわからない。これらが大家の作品だと知らなければ、だれもこれを理解しようとする忍耐心が出ないのではないか」と酷評しました。
 この攻撃に対して槍玉にあがった大家も俳句界も無視して反論をしなかったため、俳句は本格的な芸術ではない第二芸術という印象を社会に与え、その影響は60年以上経過した現在にも尾を引いているという状況です。

 このような俳句界に神風となるか、暴風となるかわかりませんが、新たな変化が発生しました。
 この世界最短の詩である俳句に外国の関心が高まってきたのです。
 例えば、清涼飲料メーカーの伊藤園は平成元年(1989)から「伊藤園お〜いお茶新俳句大賞」を実施していますが、平成5年(1993)の第5回から「英語俳句の部」を設けています。
 その最初の大賞を受賞したのはルーマニアの人で「Crabs seaching the stars fallen on the sea/the sky rummaged by claws」で、あえて翻訳すると「蟹たちが海に落ちたる星探す/その爪跡は大空に」と和歌になってしまいますが、雰囲気はあるかなという感じです。
 これまで大賞を受賞している人の国籍はルーマニア、アメリカ、イギリス、ニュージーランド、ユーゴスラビア、ベルギー、スイス、オーストリアと多様で、何と日本人が英語で作った俳句も3度大賞に選ばれています。

 さらに以前から普及活動をしていたのは日本航空で、東京オリンピックの開催を記念して、1964年にアメリカで俳句コンテストを呼びかけたところ、全米から4万1000の句が投稿され、それ以後も不定期にカナダやオーストラリアで実施したところ、毎回数万の応募があるという人気でした。
 そこで1990年に日航財団が創設されたのを契機に、世界こどもハイクコンテストを隔年で開催することにし、世界に広めています。
 例えば、2007年の入賞作品は、ロシア、アメリカ、マレーシア、スロベニア、タイ、フランス、中国、イギリスなど多数の国々の俳句です。
 一句をご紹介しますと、スロベニアの女の子供の句で「A long dark night/Full of whistling wind/No moon」(長く暗い夜/木枯らし強く/月も無し)というような感じで、この句に見られるように、3行17音節で作られるのが標準になっています。

 このようなきっかけを作ったのは戦前から日本に住み、戦後、学習院大学英文科教授として当時の皇太子に英語を教えたことのあるイギリス人レジナルド・プライスで、日本の俳句を英語に翻訳し英語圏に俳句を紹介しました。
 プライスは1964年に亡くなりますが、辞世の句は「山茶花に心残して旅立ちぬ」でした。
 この紹介のおかげで、外国の人々が俳句に関心を持つようになります。
 ただし、プライス自身はあくまで日本語での俳句を想定しており、日本語で本格的な俳句を作る外国人も登場していますが、次第に英語などの外国語で俳句を作る俳人も増え、先程ご紹介したようなコンテストに外国語の俳句が多数投稿される時代になってきたということです。

 何句か英語の俳句をご紹介しましたが、こんなのは俳句ではないと思われる方も多いかも知れません。
 しかし、柔道が国際競技になっていった経緯を想い出すべきだと思います。
 色の着いた柔道着は伝統に反するとか、一本で勝たなければ柔道ではないなどと言っている間に、国際柔道連盟の会長は1987年以来、日本人以外ですし、2007年の理事選挙では山下泰裕(やすひろ)が落選し、上村(うえむら)春樹が会長の推薦でかろうじて議決権のない理事に指名されるだけという事態になっています。
 そう考えると、俳句も世界の関心が高まったことを好機に、第二芸術から国際芸術に飛躍する戦略を考えた方がいいと思います。





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