TOPページへ論文ページへ
論文

 今日は東京象牙美術工芸共同組合が定めた「象供養の日」なので、ゾウに関する話をご紹介したいと思います。
 一昨年の暮れに、江戸時代の日本画家・伊藤若冲が描いた「象鯨図屏風」という、失われていた6曲1双の屏風が発見され話題になりました。
 クジラはともかく、日本に棲息していないゾウが描かれているのは何故かと疑問に感じられた方も多いと思います。
 ところが、高木春山の『本草図説』をはじめ、江戸時代の博物画にはゾウを描いたものが意外に何点もあります。
 それは日本に生きたゾウが何度も渡来しているからです。
 最初は1408年で、それ以後、1574年、1575年と続き、1597年にはポルトガルから豊臣秀吉にゾウ1頭、1602年にはコーチシナ(現在のベトナム南部)から徳川家康にゾウ1頭、トラ1頭、クジャク2羽が送られています。

 しかし、多くの日本人がゾウをみる機会があったのは、1728年に長崎港に到着したゾウです。
 それ以前のゾウは外国からの贈物だったのですが、今回は8代将軍徳川吉宗が求めたものでした。
 享保の改革を実行した吉宗は進取の気性の旺盛な人で、鎖国中にもかかわらず、外国の情報を入手することには熱心でした。
 1726年に江戸城でオランダ人が西洋馬術を披露したのを眺め、早速、オランダから贈られたヨハン・ヨンストンの『本草書』という図録を調べて、27頭のアラビアウマを輸入するのですが、同時に目に留まったのが、そこに描かれていた「エレファント」だったのです。
 そこでゾウが見たいということになり、その噂が長崎に伝わり、1728年6月に唐船に乗ってオス・メスそれぞれ1頭のインドゾウが象使いとともに到着したという次第です。

 このゾウを江戸まで搬送しなければいけないということになるのですが、当時の日本の船は小さくて、海上輸送はできないということで、ゾウを歩かせて陸路で運ぶということになりました。
 長い期間、船底生活で衰えた足をまず鍛えるということで、輸送は翌年になり、長崎市内に小屋を作って飼うことになったのですが、残念なことにメスのゾウは3ヶ月後に死んでしまい、オスのみが1729年3月13日に江戸に向けて出発します。

 この途中については、20年近く前に石坂昌三さんが書かれた『像の旅:長崎から江戸へ』という労作がありますので、それを参考に興味深いエピソードを紹介させていただこうと思います。
 将軍への献上品なので、長崎奉行から道中の各地に細々とした通達が出されています。
 土橋や石橋は補強し、石の凹凸を平らにするとか、見物人が騒ぐとゾウが驚くので静かにするなどの注意とともに、エサとして1日につきワラを200斤(120kg)、ササノハ150斤(90kg)、餡なし饅頭50個、ダイダイ50個などの用意が通達されています。
 ある場所では夜中にネズミがゾウ小屋に入ってきたところ、ゾウが驚いて叫び声を挙げたので、以後の小屋は板張りにするという通達が出され、関門海峡を船で渡るときはゾウが波に驚いて船の上で暴れて転覆しそうになったので、船渡しは可能な限り回避するという連絡が出されるなど大騒ぎでした。

 京都に入ったときには、吉宗の意向で、珍獣を中御門天皇に御覧いただこうということになったのですが、大問題が発生しました。
 天皇に拝謁するのには従4位以上の爵位が必要という規則があり、ゾウは拝謁できないというわけです。
 そこで急遽「広南従四位白象」に叙せられ、白象ということになったので、顔に白粉を塗って、御所の清涼殿に伺い、前足を折り曲げて頭を下げ、鼻を高々と挙げて挨拶し、天皇を喜ばせます。
 ある公家の日記に「畜類といえども帝位のいと尊きを知りけむ」と書かれています。ちなみに従四位は5万石の大名以上ですから大変な位でした。

 その後もゾウが歓声に驚いて暴走したり、川を歩いて渡るときに深みにはまったり、箱根を越えるときに疲労で病気になったりと問題はありましたが、74日間、380里(1400km)の旅行を終え、5月25日で小屋の用意された浜御殿(浜離宮)に到着しました。
 翌日は浜御殿から江戸城に伺候し吉宗に拝謁します。
 ゾウは浜御殿で13年間飼われることになりますが、吉宗はその後2回出会っただけで、急速に関心を持たなくなります。
 吉宗は国内で繁殖させ軍事利用なども考えていたようですが、メスが死んで、その可能性がなくなったことが原因ではないかと推測されています。
 しかし、江戸庶民の人気は大変なもので、「象のかわら版」の発行や、本が出版されたりしていますし、二世市川団十郎は「傾城王昭君」を作り直して「象引」という人気演目にし、これは後に歌舞伎一八番になります。

 しかし、大食漢のため、緊縮財政の時代に疎んじられ、1741年には中野村の源助という百姓に預けられます。
 源助は見せ物にすると同時に、毎日大量に出るゾウの糞を「象の泪」という名前の薬にして儲けますが、十分な世話をしなかったため、翌年、ゾウは餓死と凍死という可哀想な最後を迎えます。
 このことが影響してか、1813年にオランダの商館長が11代将軍家斉(イエナリ)にゾウを献上したいと申し出ますが、断っています。
 ゾウにとっては不幸なことでしたが、江戸時代を知るためには貴重な存在だったと思います。





designed by BIT RANCH / DEGITAL HOLLYWOOD
produced by Y's STAFF
Copyright(c) Tsukio Yoshio All Rights Reserved.