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論文

 今回は「明後日は何の日」ですが、国立公園指定記念日です。
 1934年3月16日に内務省が「瀬戸内海」「雲仙(雲仙天草)」「霧島(霧島錦江湾)」の3カ所を日本最初の国立公園に指定しました。
 1931年に「国立公園法」が施行され、3年後の3月にまず3カ所が指定され、年末の12月4日に「阿寒(阿寒摩周)」「大雪山」「日光」「中部山岳」「阿蘇(阿蘇くじゅう)」の5カ所が追加されました。
 現在では34カ所の国立公園が国内に存在しています。
 この国立公園が世界最初に制定されたのはアメリカですが、その初期に貢献したジョン・ミューアという人物を今日は紹介したいと思います。
 ミューアは1838年にスコットランドに生まれましたが、11歳の時の1849年に一家全員でアメリカに移住してきました。
 前年1月がカリフォルニアで金鉱が発見されたゴールドラッシュの年で、1849年は「フォーティナイナーズ」という言葉もあるように、世界から何万人もの人々が一攫千金を夢見てアメリカに渡ってきた年でした。
 一家はアメリカ国内を転々と移動しますが、23歳になったミューアは1861年にウイスコンシン大学に入学して化学、地質学、植物学などを勉強します。
 しかし、この年から1865年まで南北戦争が発生したため、それを避けてカナダに避難し、帰国後、各地を転々とし、最後はカリフォルニアのヨセミテ渓谷で登山ガイドをします。
 多数の人々を案内しますが、その中の一人が哲学者で作家のラルフ・ウォルド・エマソンで、その影響を受けて自然保護に熱心になります。
 さらに案内した一人がマサチュセッツ工科大学の学長で、その勧めでヨセミテ渓谷は氷河が削ってできた地形だという論文を書いたところ、当時の学説と違っていたため注目されるようになり、自然保護の文章を書くようになります。

 当時は開拓時代でしたから、自然保護などに関心を示す人は例外で、カリフォルニアの森林のジャイアント・セコイヤという樹齢何千年という巨木が次々と伐採されて木材として東部に運送され、ヨセミテ渓谷の草原もヒツジの放牧で荒れ放題という時代でした。
 この自然破壊を示す数字があります。北米大陸に大量の移民が到達する前、アメリカバイソンは少な目の推定でも5000万頭は生育していました。
 ところがゴールドラッシュの後の1860年には1000万頭程度に減り、90年後の1940年には50万頭、すなわち100分の1になっています。狩猟と食料の対象となったのです。
 この数字が象徴するような状態を憂慮したミューアは、1890年、20万部発行されていた『センチュリーマガジン』という雑誌に「ヨセミテ国立公園提案の特徴」という文章を寄稿します。
 アメリカでは1872年に世界で最初の国立公園として「イエローストーン国立公園」が指定されていましたが、このミューアの文章が注目され、その年の10月1日にアメリカで2番目の国立公園として「ヨセミテ国立公園」が指定されました。
 ヨセミテはすでに1864年にカリフォルニア州立公園に指定されていましたので、短期間で国立公園になったという背景もありますが、有名人を多数案内していたミューアの知名度も貢献したと思います。

 しかし、国立公園内での行動に罰則規定がなかったため、動物を密猟したり鉱石を採掘しても警告を受けるだけであったため、違法行為は減りませんでした。
 そこでヨセミテの自然保護のための団体を設立しようということになり、2年後の1892年5月にミューアを会長とする182名の会員で、自然保護のための「シエラクラブ」が設立されます。
 これは3年後にイギリスで設立される「ナショナル・トラスト」とともに自然保護団体の老舗の双璧で、現在では会員300万人の世界有数の自然保護団体に成長しています。

 ところがミューアに難問が降りかかります。
 ヨセミテ国立公園内にヘッチヘッチー渓谷という両側が切り立った岩壁である絶景の渓谷がありますが、ここにダムを建設して270キロメートル西側にあるサンフランシスコの貯水池にするという計画が登場したのです。
 すでに1901年から計画が浮上していましたが、1906年にサンフランシスコ大地震が発生し、死者3000人、家屋喪失者23万人、被害総額は現在価格に換算で1兆円という災害になりました。
 その影響で水の需要が必須になり、計画が一気に推進されます。
 シエラクラブを中心に反対し、ミューアがヨセミテを案内したことのある登山好きのセオドア・ルーズベルト大統領に嘆願書を出しますが、州政府の権限に介入することを躊躇した大統領はミューアの期待に応えなかったため、1913年に工事が決定し、1925年にヘッチヘッチー渓谷は水没しました。
 ミューアは工事が決定した翌年の1914年に失意の中で亡くなりますが、「自然保護の父」として尊敬され、ミューア氷河、ジョン・ミューア大学、ジョン・ミューア・トレイルという登山道などに名前が残されています。

 日本でも同様の問題は発生しています。
 田中角栄総理大臣は1972年の総裁選挙の直前に『日本列島改造論』を発表し、様々な政策を構想しますが、その一つが日本最大の面積を持つ釧路湿原の干拓でした。
 環境保護論者は当然反対しましたが、地元経済界は賛否半々でした。
 そこで環境保護派の人々が、干拓を阻止するため、1980年に釧路湿原を「ラムサール条約登録湿地」に登録して工事などができないようにし、さらに国立公園に指定される運動をして1987年7月に日本で27番目の国立公園にし、日本最大の湿原を維持することに成功しています。
 しかし、国土面積の違いからやむを得ないことかもしれませんが、アメリカの国立公園とは規模が違います。
 釧路湿原国立公園の指定面積は268平方キロですが、ヨセミテ国立公園は11倍、同じ湿原を中心とするエバーグレーズ国立公園は23倍、アラスカにあるデナリ国立公園に至っては92倍の面積です。
 国立公園指定記念日を契機に、これから自然環境が重要になる時代の自然保護のあり方を考える必要があると思います。





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