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論文

 アメリカでブッシュ大統領からオバマ大統領になって、様々な分野で変化が起きていますが、科学技術の分野でも大きな変化が発生しています。
 日本ではほとんど報道されませんでしたが、今年3月9日にオバマ大統領が「ヒトの受精卵ではない一般細胞からES細胞に似た細胞(iPS細胞)を作る研究を支援する」という演説をし、この分野の研究に政府の助成をすることを認める大統領令に署名をしました。
 これがどのような重要な転換であるかは後程ご紹介しますが、その前にES細胞とかiPS細胞とは何かをご説明したいと思います。
 まずES細胞ですが、これは「Embryonic Stem Cell」を略した言葉で、日本語では胚性幹細胞と言います。
 この細胞は理論的には、血液や神経だけではなく、心筋なども含めて、どのような組織にも分化する能力があり、しかも体外で次々と増殖させることができるという優れもので、再生医療の分野で注目されていました。
 ところが問題は、ES細胞を作るためには受精卵から少し進んだ段階の胚盤胞といわれる細胞を使って作るため、生命の萌芽を消滅させることになり、倫理的な議論があり、研究に制約がありました。
 そこでキリスト教右派といわれていたブッシュ大統領は、このような生命倫理の観点から問題のあるES細胞の研究に連邦政府が助成することを禁止していたのです。

 ところが2006年8月に大騒ぎになったので覚えておられる方も多いと思いますが、京都大学の山中伸弥(しんや)教授が受精卵を使わずにES細胞とほぼ同じ働きをするiPS細胞の製法を発表され、12月に特許を出願されました。
 これは「Induced Pluripotent Stem Cell」を略した言葉で、日本語では人工多能性幹細胞と言います。
 このiPS細胞は受精卵を使う必要はなく、皮膚の細胞などを遺伝子操作して受精卵に近い状態に戻して、そこから製造することができるので、倫理的な問題が大きく解決の方向に向かいました。
 しかし好事魔多しで、4つの遺伝子を皮膚の細胞などに入れて製造する過程で、細胞がガンになる比率が高く、そのような細胞から組織を培養して体内に戻すと、再生医療を受けた人がガンになる可能性があり、簡単には利用できないということが分かってきました。
 そこで当面の目標は使用する遺伝子を減らし、最終的には使用する遺伝子をゼロにしてiPS細胞を製造できるようにすることになり、国際的な競争が始まりました。

 まず2007年12月に山中教授のチームで3個に減らすことに成功し、日本は先頭にあったのですが、2008年5月にアメリカのスクリプス研究所が2個に減らし、今年の2月にはドイツのマックスプランク分子医薬研究所が1個に減らすことに成功し、さらに4月にはアメリカとドイツの共同研究チームが遺伝子ゼロでiPS細胞の作成に成功したと発表し、日本の優位が崩れてきたのです。
 そこへ登場したのが、冒頭にご紹介したオバマ大統領の政府助成解禁令ですから、ますます日本は危うくなってきたという訳です。
 このような事態は当初から予想され、山中教授が総理大臣に直接訴えたり、科学技術会議に働きかけたりしていましたが、反応は十分ではなく、どんどん遅れて行くというような事態になっています。

 理由は物量の不足です。まず研究者ですが、国際幹細胞研究学会の会員数はアメリカの1128人に対し、日本は118人と10分の1です。
 これは私も実感した経験があります。30代前半にコンピュータで制御する自動車の研究をしていたのですが、日本では数10人程度しか研究者がいないのに、アメリカの学会に出掛けたら1000人以上が集まっていて驚いたことがあります。
 そして第二は資金です。アメリカはこれまでも年間約900億円の連邦政府の助成がありましたが、今回のオバマ大統領の署名で5割増になると予想されていますし、カリフォルニア州だけでも10年間で3000億円を助成することが決定しています。

 それでは日本はというと、今年度で55億円、関連する分野を含めても200億円ですから桁違いです。
 さらに関連企業の数も日米の格差は10倍近い状態です。
 このような人と金の差は成果にも反映し、昨年の主要科学誌に掲載されたiPS細胞関連の論文はアメリカの7本に対し、日本は1本という大差になっています。

 このような物量作戦で負けた事例は何度も登場しています。
 有名な例は遺伝子の解読です。日本では1980年代に東京大学理学部に居られた和田昭允(あきよし)教授が、シーケンサーという画期的な解読装置の原理を発明されたのですが、科学技術庁と大蔵省がその重要性を理解できなかったために予算を途中で打ち切ってしまい、結局、装置の特許も大半はアメリカ企業が独占し、ヒトゲノムの解読では日本は主導権を取ることができませんでした。

 ナノテクノロジーでも、日本電気の研究所に居られた飯島澄男博士のカーボンナノチュープの発見などで先頭にあったのですが、クリントン大統領が国家ナノテクノロジー・イニシアティブ(NNI)で一気に研究資金を投入し、日本は優位に立てない状態になってしまいました。

 いずれもスタートダッシュは日本が素晴らしいのですが、後方支援が十分ではなくて優位を失って行くという事態は第二次世界大戦の経過を再現しているような状態です。
 定額給付金を喜んでおられる方もおられますし、利用が少ない高速道路の建設も必要だと言う方も居られますので否定するわけではありませんが、目先の人気取り政策に努力したり、自分の役所の権益確保で暗躍するのではなく、日本を長期に発展させる分野に投資する高度な判断力を政治家や官僚は養ってほしいと思います。





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