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論文

 今日は電信電話記念日ですが、日本の電信電話の創成期の興味あるエピソードをご紹介したいと思います。
 今日が電信電話記念日になっているのは、明治2(1869)年の旧暦9月19日に横浜の裁判所から東京税関まで32kmの区間に公衆電信線の建設工事が始まったことを記念して、1950年に制定されたのですが、この旧暦9月19日を新暦に換算すると10月23日になるからです。
 この電信線は途中に593本の電柱を立てて12月には敷設が終了し、12月25日、新暦の翌年1月26日から電報の取り扱いが始まりました。

 この頃には面白い話題がいくつもあり、電線を伝わって手紙が届くと思っていた人々が多く、電線の下にムシロを敷いて、いつ手紙が電線を伝わっていくかと終日電線を眺める人が各地に登場したとか、東京で勉強していた息子が浜松の親に着物を大至急送ってくれと伝えたところ、一番速い方法は電信だということで、風呂敷包みを電信線に引っ掛けておく人も居たそうです。
 始まったばかりの技術ですから故障が多く、明治5(1872)年新暦の10月14日に新橋と横浜の間に鉄道が開通してからは、汽車で電報を運んだり、電報局が各地に整備されていない時期には、もっとも近い電報局から先は郵送していたということもあったそうです。
 また、当時「電信線には処女の生き血を塗らなければ通信が開始できない」という風説が流れ、若い女性が眉を落とし、歯をお歯黒にして処女に見えないようにすることが流行ったり、電線工事のための測量隊を住民が取り巻く事件も記録されています。

 この電信技術は、いつ、だれが発明したかについては諸説ありますが、イギリスのウィリアム・クックとチャールス・ホイートストンが1837年に特許を取得したのが最初という説と、アメリカのサミュエル・モールスが同じ年に発明したという説が一般に流布しています。
 これが日本に伝わったのは、アメリカの東インド艦隊司令長官ペリー提督が1854年に2度目に来航して海兵隊の演奏する「ヤンキー・ドゥードゥル」の音楽とともに横須賀の久里浜に上陸したとき、アメリカのフィルモア大統領からの様々な贈答品を幕府に献上しますが、その中でとりわけ日本人が驚いたのが、実際に走ることの出来た蒸気機関車の模型と電信機でした。
 この電信機は現在も稼動する状態で大手町にある逓信総合博物館に保存されています。
 その後、オランダやプロシャも幕府に電信機を献上し、幕府や各藩が電信技術を研究し、勝海舟や渋沢栄一なども勉強していたので、明治政府が設立された直後から公衆電信を短期間で開始することができたというわけです。

 電信電話記念日というように電信が先になっているのは何故かと思われる方も多いと思いますが、NTTの前身が日本電信電話公社であったことと同様、電信の方が先に発明され、先に実用になっていたからです。
 電話は1876年にアメリカのアレキサンダー・グラハム・ベルが発明したのですが、すでに翌年には日本に実物が輸入されていました。
 これは明治18(1885)年に初代逓信大臣に就任する榎本武揚がロシアに公使として滞在しており、彼が送ってきたという説や、アメリカに派遣されていた技手の森明善が持ち帰ったという説がありますが、当時も最新技術の導入には熱心であった日本人の姿が反映しています。

 当初は各地に敷設されていた電信線を使って実験が行われていましたが、やはり面白い話があります。
 明治10(1877)年頃にお雇い外国人のイギリス人のジョセフ・モリスが東京にある中央電信局と静岡電信局の間の電信線を利用して電話の実験をしていましたが、大声で話しても通じないので、電報で「このような話をしたが、通じたか?」と送ったところ、「牛の唸り声でもなく、犬の遠吠えでもなさそうで、どうやら人間の声のような響きはするが、何のことやら判らない」という電報が戻ってきたということです。
 原因は電信線が銅線ではなく鉄線を使っていたので信号が十分に届かなかったのですが、このモリスという人は電線の敷設に尽力した建築技師なので、原因が判らず失敗ということのようでした。

 明治23(1890)年に東京と横浜の区間に専用の電話線が敷設されるのですが、非常に高価な通信手段であったので、東京で155回線、横浜で42回線の加入があっただけでした。
 ここに開通当時の電話帳といっても一枚の表を持って来ましたが、どのようなところが利用していたかというと、番号1番は東京府庁、2番が逓信省電務局、3番が司法省、4番が大蔵省総務局、5番が文部省という役所です。
 流石、新聞社は利用しており、7番に日報社、8番に大同新聞社、9番に朝野新聞社、10番に改進新聞社、147番に毎日新聞社、148番に時事通信社などが加入しています。
 個人の名前は、東京で67人、横浜で8人が加入しており、有名なところでは、セメント事業で成功した浅野惣一郎が57番、第一国立銀行を創設した渋沢栄一が158番、大蔵財閥の創設者大蔵喜八郎が159番、早稲田大学の創設者大隈重信が177番、郵便制度を創設した前島密が248番、三井物産を設立した益田孝が251番など、明治以後の日本を作った名前が並んでいます。
 しかし現在、時代は携帯電話とインターネットが中心となり、電信は消滅し、固定電話は世界各国で減少しはじめており、明治は遠くなりにけりということを実感します。





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