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論文

 9月末に島根県の隠岐島にカヤックに行ってきましたが、素晴らしい島でした。
 隠岐島は大きく二つの島で構成され、東側にあるのが島後(どうご)、西側にあるのが島前(どうぜん)ですが、この島前は地図で見ると、知夫里(ちぶり)島、西ノ島、中ノ島という3つの島が大きな湾を取囲むような凹型になっており、ほぼ凸型の円形をした島後とは対称的な形をしています。
 これは島前が隆起している途中で中央部分が陥没してカルデラとなり、海水面が上昇したときにカルデラに海水が浸入し、外輪山が3つの島として残ったという経緯によるものです。
 今回は島前の西ノ島に行ってきたのですが、北側は外輪山が荒波に削られた断崖絶壁で、最も高い断崖は摩天涯といわれ267mもの高さがあり、北海道の知床半島に匹敵する雄大な光景でした。

 この島前は後鳥羽上皇や後醍醐天皇の流刑の地としても有名で、その行在所が現在も史跡として残っています。
 後鳥羽天皇は1183年から1198年まで16年間にわたって在位した第82代天皇ですが、退位後も上皇として23年間も院政を敷いた方です。
 1221(承久3)年に鎌倉幕府の執権北条義時追討の宣言を出し「承久の乱」を起こしますが、幕府軍に完敗し、島前の中ノ島に配流され、その配所で1239年に崩御されています。
 後醍醐天皇は1318年から1339年まで22年間にわたって在位した第96代天皇ですが、鎌倉幕府を倒幕する計画が二度にわたって発覚し、1331年の2度目の「元弘の変」で幕府に逮捕され、翌1332年に西ノ島に配流されます。
 しかし、翌年に島から脱出して足利尊氏の支援により復帰しますが、後に足利尊氏の離反により京都から吉野に脱出し、そこに南朝を開きますが、その吉野で崩御するという波乱の人生を送った天皇です。

 そこで今日は流刑、流罪、配流、遠島、普通の言葉で言えば島流しといわれる刑罰について色々な話題をご紹介したいと思います。
 現在の日本の刑罰には流罪はありませんが、明治41(1908)年に刑法が制定されて廃止になるまでは、死罪に次いで重い刑罰でした。
 これは中国の制度に習ったもので、中国では2000里(1120km)、2500里(1400km)、3000里(1680m)の三種がありましたが、日本はそれほど広大ではないために、古代には、近流(こんる)300里、中流(ちゅうる)560里、遠流(おんる)1500里と決められていました。
 近流が越前や安芸、中流が信濃や伊予、遠流が伊豆、安房、佐渡、土佐、薩摩などが流刑地でした。
 中世以後は流罪がなくなり追放が重い刑でしたが、江戸時代に追放よりも重い刑として遠島が復活し、八丈島が主な場所でした。
 そして明治時代になると、高倉健主演の映画「網走番外地」シリーズで有名になった網走監獄など北海道の刑務所が流罪の場所でした。

 歴史的には流刑になった有名人は多数存在します。
 多くの方がご存知の有名人はナポレオン・ボナパルトだと思います。1804年に皇帝になって独裁体制とし、次々と戦線を拡大していきますが、1812年のロシア遠征に失敗し、それを契機にプロイセン、オーストリア、スウェーデンなどの同盟軍がフランスを包囲し、1814年に帝国の首都パリが陥落して退位させられ、地中海のコルシカ島とイタリア半島の間にあるエルバ島に追放されます。

 しかし、翌年、島から脱出して復位しますが、ワーテルローの戦いで敗れてイギリスの軍艦に投稿し、今度は脱出不可能な大西洋の孤島セントへレナ島に幽閉され、そこで生涯を終えています。

 このような政治犯の大物ではなく、一般の犯罪者が大量に流刑になったのがオーストラリアです。
 イギリスは17世紀後半から植民地であったアメリカに犯罪者を送り込んでいましたが、アメリカが1776年に独立宣言をしてしまったので、犯罪者の送り先が無くなり、急遽、その年の6月に「監獄船法」という法律を作って、テームズ川の河口の沖合に浮かべた老朽船を監獄として使っていました。
 当時はテームズ川の川下り船の観光コースとなっており、監獄船ツアーは大好評であったと記録されています。
 しかし、これには容量の限界があり、1788年から、オーストラリアが流刑植民地になり、第一団として736人の囚人が送り込まれ、1868年に中止になるまで80年間で合計16万3021人の囚人が流刑になり、昨年7月に、それらの人々の記録がオンラインで公開されているそうです。
 その結果、オーストラリアの現在のケビン・ラッド首相の曾曾祖父、すなわち4代前は砂糖1袋を不法に入手した罪でオーストラリアに流された人だということが明らかになったと報道されていますが、最近ではむしろ流刑者の子孫は名誉なことという雰囲気だそうです。

 これに比べると日本はささやかなものですが、遠流になった有名人を挙げてみると、江戸時代に三宅島に島流しになった人に絵島生島事件の主人公であった歌舞伎役者の生島新五郎がおり、もう一人の主人公の江戸城大奥の御年寄であった絵島は信濃に配流されています。
 また西南諸島も流刑地としては利用されており、1177年に鹿ヶ谷の陰謀が露見した俊寛、藤原成経(ふじわらのなりつね)、平康頼(たいらのやすより)は鬼界ケ島に、幕末に活躍した大久保利道の父大久保利世(としよ)は喜界島に、西郷隆盛は沖永良部島に、村田新八は喜界島にという具合です。

 現在では交通手段も通信手段も発達したので島流しで犯罪者を隔離するのは困難ですし、そもそも犯罪者をどのような罪に問うのかは大変に難しい社会の課題ですが、最近の食品偽装犯罪や役人の不正などの増加を見ると、刑罰の見直しも必要ではないかという感じもします。





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