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論文

 現在、私は客船「飛鳥U」に乗って、丁度、アフリカ大陸とシナイ半島の間にある紅海をスエズ運河を目指し、北に向かって進んでいるところです。時間は真夜中の3時です。
 甲板に出て、満天の星空を眺めながら、衛星携帯電話イリジウムを使って話をしているところですが、日本ではなかなか見ることの出来ない美しい星空です。

 今日は、あと半日で入口に到達する、世界三大運河の一つであるスエズ運河についてご紹介したいと思います。
 世界三大運河かについてはいくつかの説がありますが、普通には古い順番から、1784年に開通した北海とバルト海を結ぶ長さ98キロメートルの「キール運河」、次に1869年に完成した紅海と地中海を結ぶ193キロメートルの「スエズ運河」、そして1914年に完成した大西洋と太平洋を結ぶ長さ80キロメートルの「パナマ運河」ということになっています。

 スエズ運河の位置はお分かりかと思いますが、アフリカ大陸の北東部がシナイ半島と接している部分にあります。
 ここに水路があれば、アフリカ大陸の南端の喜望峰を回らなくても地中海からインド洋に出ることができるので、古代エジプト時代から運河の計画があり、実際に紀元前2000年頃には細い水路が掘られていたようです。
 しかし、それは埋もれてしまっており、近代になって真剣に検討したのはナポレオンでした。
 彼は1798年のエジプト遠征のときに、学術調査団を連れて行き、測量をさせたのですが、地中海と紅海の水位の差が10メートルから12メートルもあるという結果だったので、あきらめていました。
 ところが、その調査結果は間違いで、水位の差は1メートルから2メートルしかなく、途中の陸地も平坦で、しかも中間にビター湖をはじめとしていくつかの湖があるので、それを結んでいけば容易に運河を建設できたのです。

 それに気が付いたのがフランスの外交官であったフェルナン・ド・レセップスで、エジプトの領事をしていたときに家庭教師をしていたサイード・パシャがエジプトの総督に即位したのを契機に、1854年にスエズ運河を開削する権利を獲得し、1859年から10年間をかけて完成させます。
 これはエジプト人を延べ150万人動員し、12万人以上がコレラで亡くなるという犠牲を払って完成したのですが、効果は抜群で、シンガポールからロンドンまでの距離が2万4500キロメートルから1万5000キロメートルと4割も短縮されました。

 その後、1875年にイギリスが運河の運営会社の株を大量に取得して支配しはじめますが、このときに興味深いエピソードがあります。
 エジプトが海外からの借金の返済が困難になり、国際スエズ運河会社の株を売りに出しますが、フランスは普仏戦争に負けて巨額の賠償金をドイツに支払うために財政に余裕がなく、買い取ることが出来ませんでした。
 そこでイギリス首相のディズレイリがライオネル・ロスチャイルドから400万ポンドを借り入れ、一気に大株主になったのです。
 そのときディズレイリがヴィクトリア女王に伝えた有名な言葉が「It is yours,Madame(女王様、これで貴女のものです)」でした。
 それ以後も、1956年にエジプトのナセル大統領が国有化を宣言するなどの紆余曲折がありますが、世界を震撼とさせたのは、1967年に勃発した第3次中東戦争の結果、スエズ運河がエジプトとイスラエルの軍事境界線となったために、1975年に第4次中東戦争が停戦となるまで通行できなくなったことです。
 1973年のオイルショックの時には、ヨーロッパへ石油を運ぶタンカーが喜望峰を回らざるをえず、スエズ運河の重要さが改めて世界に認識されました。

 スエズ運河は幅が160メートルから200メートル、深さが19・5メートルしかないので、大型船が通行するのはなかなか難しく、あらかじめ通過予定日時をスエズ運河管理局に連絡し、指定時間までに入口に到着して待機し、10隻から15隻が「コンボイ」と言われる船団を作り、1・8キロメートルの間隔を空けて通過します。
 速度は7ノット、時速にすると13キロメートルに制限されているうえに、途中ですれ違うために停止したりするので、193キロメートルを通過するのに丸一日かかる大仕事です。
 それでも現在、1年に1万4000隻ほどの船が通過し、エジプトの外貨獲得に貢献しています。

 私は船で通行するのは今回が初めてですが、25年ほど前に陸からスエズ運河を見学に行ったことがあります。
 映画『アラビアのロレンス』に出てくるように、遠くから眺めると、砂山の向こう側を巨大な船がゆっくり動いて行く様子は感動する光景でした。
 なぜ見学に行ったかというと、スエズ運河の拡幅工事を日本の建設会社の五洋建設(ペンタオーシャン)が行っていたからです。
 これはNHKの「プロジェクトX」でも取り上げられた難工事で、1961年から1967年までの3期の工事の後、第3次中東戦争が始まり工事は中断し、第4次中東戦争が停戦になった8年後の1975年に第4期の工事が再開され、1980年に完成するという20年間の大工事でした。
 私が行ったのは、この第4期工事の最中でしたが、中東戦争のときの不発弾が運河の中にたくさん散らばっており、浚渫しているとパイプの中で爆発し、その度に工事が中断するという大変な仕事をしておられました。
 しかし、この難工事を成し遂げたということで、ペンタオーシャンの名前はエジプトでは有名で、カイロ市内でもペンタと言えば通用するほどで、やはり、このような協力で国際関係が築かれて行くということを実感しました。





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