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論文

 最近の経済界で話題になっている事件を見ると、一般の人々の価値観からは異常とも思える報酬を要求する経営者が何人も登場し、また、違法な製品の検査などをしてきた企業も次々と発生しています。
 それぞれ事情は異なるにせよ、基本は個人や企業が利益を上げるために本来の経営者の役割や企業の役割を忘れていることではないかと思います。
 このようなことは最近になって始まったことではなく、古代から権力者は膨大な富を蓄積してきましたし、ありふれた金属を金や銀に変える怪しげな錬金術も古代ギリシャ時代から研究されていましたから、いつの世にもあったことかもしれません。
 その一方で、清貧に甘んじ、私財を投入して社会のために尽くした人々も歴史の中には多数存在します。
 そこで今日は、そのような清々しい人生を送った何人かを紹介し、清涼剤にさせていただきたいと思います。

 第一は江戸へ水道を引いた庄右衛門と清右衛門という兄弟です。
 天正18(1590)年に駿府から江戸へ移動した徳川家康は、直ちに水道の整備を開始し、小石川上水や神田上水が実現しますが、慶長8(1603)年に江戸幕府が成立すると人口が集中し、次第に上水が不足してきます。
 そこで4代将軍徳川家綱が江戸城から50キロメートルほど西にある玉川から水を引く計画を慶安5(1652)年に立案し、その工事を玉川が流れている羽村の出身の庄右衛門と清右衛門という町人に金7500両(約25億円)で請け負わせます。
 大変な難工事でしたが、取水口から四谷大木戸まで42キロメートルの距離で高低差が92メートルしかない緩やかな水路を、人力のみで11ヶ月で完成させたのです。
 しかし簡単に完成したわけではなく、玉川から取水する場所を二度も変えるなどの苦労もありましたし、最大の問題は7500両を約束してくれた幕府から6000両しか渡されず、取水地から30キロメートルほど掘り進んだ高井戸のあたりで資金が枯渇してしまったことです。
 幕府に交渉したところ、完成したら支払うから自分で工面しろという冷淡な返事でした。
 仕方なく兄弟は手持ちの2000両と府内に所有していた3軒の家を売って1000両を調達し、見事に完成させました。
 この玉川上水は明治時代になって新宿の淀橋浄水場に引かれ、1965年まで都民の重要な水源になっていましたが、工費の3分の1、10億円近くを個人で負担した玉川兄弟のおかげということになります。

 二番目は三重県の四日市港を個人で作った商人の話です。
 四日市港は江戸と大坂の中間にある天然の良港として15世紀から利用されてきましたが、江戸末期の安政年間に発生した何度かの大地震の影響で堤防の内側に土砂が流入して港の機能が低下し、次第に寄港する船が減っていきました。
 それに危機感を持った地元の海運業者の稲葉清右衛門は、明治5(1872)年に三重県知事に、波止場と灯台を建設して船の入港を便利にすれば商業が発展するので工事をさせて欲しいと嘆願書を出したところ、意外にも、その日に許可されてしまいました。
 そこで自分の土地と県の所有地と一緒に開発する総工費8万2500円の計画を提出して許可されたため、民間で開発をすることになります。8万2500円は現在の40億円くらいになります。
 大変な事業ですが「自分が10万金を投入して地域に100万金の収益があれば、90万金は地域の収益になるし、工事費は作業をする貧しい人々の収入になる」という信念で工事を開始します。
 ところが工事開始から1年ほどで資金の調達が困難になり、工事を中断せざるを得なくなります。
 そこで三重県が県営事業として代行することにします。しかし1年後に資金調達の目処を立てた稲葉は、再度、工事を任せて欲しいと交渉しますが、三重県が拒否します。
 なかなか諦めない稲葉は裁判所に提訴しますが敗訴になります。それでも執念のある稲葉は伊藤博文内務卿に直訴した結果、港湾が完成したら公有にするという条件で許可されました。
 工費は当初の予定の2.5倍にもなり、稲葉は巨額の借金を背負いますが、地域の発展のためという情熱で実現しました。

 三番目は民間人として阿寒国立公園の基礎を作った人物の話です。
 日本では昭和9(1934)年3月に4カ所、12月に4カ所の国立公園が指定されますが、12月に指定された1箇所が阿寒(現在は阿寒摩周)国立公園です。
 この国立公園の中心部分は前田正名という人物が寄贈した土地です。
 幕末の薩摩藩に生まれた前田正名は薩長同盟(慶応2(1866)年)の裏方として活躍した人です。明治11(1878)年に開催されたパリ万国博覧会の日本の博覧会事務官長をして帰国してから、農商務省の官吏、山梨県知事、農商務次官など官僚として政府に勤めますが、明治23(1890)年に陸奥宗光農商務大臣と意見が対立して辞任し、以後は民間で活躍した人です。
 全国各地で事業を行いますが、明治39(1906)年以降、牧場を開くため北海道の阿寒湖畔に3800ヘクタールの土地を購入し、移住します。
 ところが若い頃に訪問したスイスに似ていることから、開発を止めて公園にすることにします。
 前田は「前田家の財産はすべて公共事業の財産となす」という家訓を残したため、大正10(1921)年に前田が死亡してから、その家訓により、遺族が3800ヘクタールの土地を中核にして昭和9(1934)年に指定された8カ所の国立公園の1カ所として阿寒国立公園が実現したのです。
 現在の新聞記事になるような私益や社益のために奔走する経済人と比べると清々しい人生を送った人々です。
 このような人生を送った内外の23人の生涯を紹介したいと『清々しい人生』(遊行社)という題名の書籍を12月に出版しました。ご覧いただければ幸いです。





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