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論文

 本日7月12日は「ラジオ本放送の日」という記念日です。そこで今日はラジオ放送の「これまで」と「これから」を考えてみたいと思います。
 まず「これまで」です。ラジオ放送は無線通信の一種ですが、その無線通信が発明されたのは、一般には1895年にグリエルモ・マルコーニがイタリアで800mほどの距離で実験に成功したのが最初とされています。
 しかし、それ以前に、アメリカのマーロン・ルーミスが1866年に24kmほどの通信に成功しているとか、1893年にハンガリー生まれのニコラ・テスラが無線通信機を発明しているなど、様々な情報があります。

 しかし、この無線通信の技術を使って音声を伝えるというラジオ放送の歴史は比較的はっきりしており、1906年にアメリカでレジナルド・フェッセンデンがクリスマスイブの日から大晦日までクリスマスソングや聖書の朗読を送信したのが最初とされています。
 また、3極真空管の発明で有名なリー・ド・フォレストも翌年に海軍の艦隊に向けて有名なオペラ歌手の歌を放送しています。
 これらは発明家が技術開発の一環として行っていたもので、事業になるのには1920年11月まで時間がかかりました。
 アメリカのピツバーグで電波発信の許可を取ったKDKAという放送局が大統領選挙の結果を放送し、共和党のハーディング大統領の当選を報道しました。これがラジオ放送を事業として開始した最初です。
 そして1923年には広告を放送するようになり、現在の商業ラジオ放送のモデルが出来上がったのです。

 日本では、アメリカより5年遅れて、1925(大正14)年に東京芝浦にあった社団法人東京放送局の仮放送所から最初の音声が仮放送として発信されました。
 3月22日の午前9時30分のことですが、これには初めてのことで色々なエピソードがあります。
 当初は3月1日に本放送を開始する予定を発表していたのですが、当時、日本に1台しかなかったウェスタンエレクトリック社製の送信機を社団法人大阪放送局に先に買われてしまい、無線電信電話機を改良して放送しようとしたのですが、逓信省から許可が下りなかったのです。
 しかし、それでは大阪に先を越されるということで、3月1日から3週間の試験放送をして検査に合格し、3月22日から仮放送を始めたというわけです。
 仮放送というのは本放送ですが、仮放送所から送信するということで、そのような名前になったのですが、この日が「放送記念日」となっています。
 それでは7月12日は何の日かということですが、愛宕山に正式の放送所が完成し、ウェスタンエレクトリック社の送信機も購入して放送をした日というわけです。

 3月22日の放送の第一声は「あーあーあー、聞こえますか。JOAK,JOAK、こちらは東京放送局であります。こんにち只今より放送を開始します」というものでした。
 これはマイクテストの音声が放送されたという説もありますが、当時の受信機はほとんど鉱石ラジオだったので、ゲルマニウムの結晶のもっとも感度の良いところを針で探る必要があり、そのための音声だとも言われています。
 この時、東京の受信者数は5455人でしたが、年末には東京で13万人、大阪で5万人、名古屋で1万5000人に急増しました。
 どうして細かな数字が分かるのかというと、ラジオ受信機を購入するためには、逓信省の許可が必要だったという時代だからです。
 そして1925年に世帯の2・1%にしか普及していなかったラジオ放送も1955年には74%に浸透し、放送局数も1局から現在では1880局に、放送時間も1日5時間程度から24時間に増大し、順調に発展してきましたが、現在、大きな転換点に来ていると思います。

 それを象徴するのが、一昨年、ラジオ放送の広告収入がインターネットに逆転されたことでした。
 この傾向を10年以上前から予告した言葉があります。アメリカのメディア関係の学者が言い出した「通信は無線に、放送は有線に」という言葉です。
 確かに、電話は2000年前後で固定電話を携帯電話が追越して無線が優勢の時代になる一方で、ラジオ放送もテレビジョン放送もインターネットで聞いたり見たりする人々が増えてきましたし、iPODのような携帯端末にインターネットからダウンロードして見聞きしている人も見かけることが多くなりました。

 そこで今後、ラジオ放送はどうなるかということですが、やはり原点に立ち戻るということがヒントになるのではないかと思います。
 1925年3月22日の開局式のときに、東京放送局総裁の後藤新平がラジオ放送の目標を1)文化の機会均等 2)家庭の団らん 3)社会人教育 4)経済機能の敏活 と説明しています。
 文化の機会均等は地域格差や老若男女の格差などを無くすことに貢献するということです。個人的な体験ですが、この番組に出演させていただいてから、全国各地に行くと、地方で、特に高齢の方々から声をかけられるようになりました。そういう点では若者を相手にした番組が多いテレビジョン放送とは違う役割を見出せるのではないかと思います。

 そして、後藤新平が東京放送局の総裁になったのは、関東大震災のときの東京市長として、非常事態のときに市民に情報を伝達する方法の必要を痛感したからだと言われています。非常事態のときには通信が制約される携帯電話に代わって重要な伝達手段になる期待もあります。
 ラジオ本放送が始まって82年経った現在、改めてラジオの役割を送る側も聞く側も考えてみるべきだと思います。





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