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論文

 今年もノーベル賞受賞者が決定しましたが、残念ながら日本人の受賞者はありませんでした。日本はこれまで物理学賞、化学賞、医学生理学賞の科学分野で9名、文学賞で2名、平和賞で1名の受賞者を輩出していますが、人口当たりの受賞者数は世界の19番目で、随分と少ない状態です。
 これはノーベル賞の対象となるような科学の歴史が短く、また、かつては日本語以外の論文が少なく、業績を認められる機会が少なかったとか、選考委員が欧米諸国 中心であるというような理由が挙げられますが、これまでの選考の経緯を調べてみると、正当に認められず、悔しい思いをしてきた日本人が何人もいます。

 そこで今日はノーベル賞を貰い損なった日本人を紹介したいと思います。
 第1回のノーベル賞受賞者は1901年に発表され、物理学賞はX線を発見したドイツのレントゲン、化学賞は熱力学の法則を発見したオランダのファントホフ、医学生理学賞は血清療法を発明したドイツのベーリングが受賞していますが、実は有望な日本人の候補がいました。医学者の北里柴三郎です。
 北里柴三郎は明治18(1885)年に32歳でドイツへ留学し、炭疽菌、結核菌、コレラ菌を次々と発見して著名なロベルト・コッホの指導で研究します。
 そして留学4年目の1889年に破傷風菌の純粋培養に成功し、さらにその治療や予防に効果がある血清療法を発明します。この研究はコッホに絶賛されますが、コッホが弟子のベーリングに情報を伝え、ベーリングは北里の協力で、ジフテリアの血清療法を確立します。そして実際にノーベル賞を受賞したのはベーリングでした。
 この理由は薮の中ですが、最近になり、選考課程の秘密書類を見たジャーナリストによると、第一次リストに名前が挙げられた46名の中にはベーリングも北里も名前がありますが、15名に絞られた第二次リストには北里は残っていたが、ベーリングは消えていたそうです。そして第三次リストではロス(1902年受賞)とフィンセン(1903年受賞)という2人の学者が候補となったのですが、選考委員会が差し戻しを要請し、再度検討した結果、ベーリングになったということです。
 当時のヨーロッパが東洋の発展途上国を軽視していたということもあるでしょうが、日本国内の問題もありました。当時の陸軍では兵隊が脚気になる原因について「脚気論争」が発生しており、帝国大学医学部出身で軍医であった森林太郎など主流派が「脚気病原菌説」でした。ところが、北里は実験をして間違いだということを突き止め、それを発表してしまいます。
 北里も帝国大学医学部出身でしたが、母校と権威を敵に回したため、凱旋帰国をしたにもかかわらず、大学教授の地位も研究室も政府から与えられないという冷遇で、ノーベル賞についても政府が後押をしなかったからだという意見もあります。

 同じように世界で最初にビタミンB1(オリザニン)を発見した鈴木梅太郎も、脚気の原因はビタミンの欠乏ではないと主張する陸軍の圧力で、1年後に発見したポーランドのカシミール・フンクに名誉を奪われることになりました。

 もう一人、ノーベル賞を取り損なった学者を紹介したいと思います。磁石の鉄心には鉄やその合金が使われてきましたが、1930年に加藤与五郎と武井武が鉄酸化物の粉末を焼き固めたセラミックスで強磁性体を作ることに成功しました。
 これはフェライトと呼ばれ、エレクトロニクス分野の三大発明といわれるほどの大発明で、磁石の鉄心として以外には、ビデオテープなどに塗られて記録媒体としても使われています。
 どうして焼物であるフェライトが磁性を持つかはなかなか分からず、それを解明したフランスのルイ・ネールが1970年にノーベル物理学賞を受賞しますが、加藤と武井は協同受賞者にもなれませんでした。
 それは加藤たちが理論解明を怠ったこともありますが、オランダのフィリップス社が巧妙な広報作戦を展開し、フェライトを発明したのはフィリップス社だという間違った情報を世界に与えたせいだとも言われています。

 もう少し長生きしていればノーベル賞を受賞できたという学者も何人かいます。
 その一人は東京大学教授の久保亮五(りょうご)です。この方は僕が大学にいた時代に現役の理学部教授で、とにかく頭の良い学者として有名でした。
 多数の業績がありますが、もっとも有名な業績は量子統計力学では誰もが学ぶ「久保公式」といわれる理論です。
 晩年に脳梗塞で倒れ亡くなりますが、もう少し生きておられれば確実にノーベル賞を受賞できたと言われています。
 同様に田中豊一(とよいち)も、ゲル化学の分野で多数の画期的業績がありましたが、マサチュセッツ工科大学の教授であった54歳のときに急性心不全で亡くなり、子供の頃から「科学者になってノーベル賞を取る」と言っていた夢を実現できませんでした。
 恩師の東京大学の和田昭允(あきちか)教授は「もし天が彼に更なる余命を与えたならば、日本人受賞者の数を増やしていただろう」と追悼しておられます。

 科学者にとってノーベル賞がすべてではありありませんが、このように見て来ると、ノーベル賞は業績だけではなく、一種の運とかタイミングがなければ受賞できないということが分かると思います。





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