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論文

 来週月曜日の11月5日は2015年に国際連合が定めた「世界津波の日」です。
 これは日本政府が提案して採択されたのですが、なぜ11月5日かなのかについて説明させていただきたいと思います。
 先週もご紹介しましたが、自然災害の被害は急速に増えていますが、その中でも津波の被害は甚大です。
 2011年3月の東日本大震災でも1万6000人近い方が亡くなり、現在でも2500名以上の方が行方不明のままです。
 それより115年前の明治29(1896)年6月には、ほぼ同じ地域を襲った明治三陸地震で地震と津波で2万2000人近い方が亡くなっています。
 しかし、世界ではさらに多数の死者が発生しており、2004年12月にインドネシアのスマトラ島を襲った津波では22万人以上が亡くなっています。

 そして現在、日本では過去に90年から150年の間隔で発生してきた伊豆半島から九州にかけての南海トラフ巨大地震が心配されており、内閣府の有識者会議の推計では、最悪の場合、静岡で11万人、和歌山で8万人、高知、三重、宮崎でそれぞれ4万人など、合計で40万人以上が死亡するという推計もあります。

 どうすればよいかですが、秘訣は漫画雑誌で6年間連載され、TBSでドラマにもなった「逃げるは恥だが役に立つ」です。
 元はハンガリーのことわざで「恥ずかしい逃げ方でも行く抜くことが大切」という意味です。
 また東北の三陸地方では「津波てんでんこ」という言葉が伝えられており、家族や仲間のことを心配しないで、それぞれが勝手に避難しなさいという意味です。
 実は11月5日は164年前の江戸末期に発生した安政南海地震で、逃げることによって多くの人を助けた偉人に関係があるのです。

 江戸時代末期の嘉永から安政という時期は日本が騒然とした時期でした。
 政治では嘉永6年(1853)にアメリカのペリー代将が率いる東インド艦隊が4隻の黒船で到来し、久里浜に上陸してフィルモア大統領の国書を幕府に手渡し、翌年、日米和親条約が締結され、その後、日英、日露、日蘭、日仏など西欧諸国と和親条約を締結し、250年間の鎖国時代が終わる契機になった年です。
 その政治事件に呼応するかのように自然界にも異変が発生し、翌年の嘉永7年(1854)には伊賀上野地震、安政東海地震、安政南海地震、豊予海峡地震など、各地で地震が発生し、年号が嘉永から安政に改められました。
 その安政東海地震と安政南海地震の時に村を救った偉人が11月5日に関係があるのです。
 和歌山県の紀淡海峡に面した位置に広川町がありますが、江戸時代には広村という人口1300人程度の漁村でした。
 ここに文政3(1820)年に生まれた濱口梧陵という経済人がいました。
 利根川河口の銚子に正保2(1645)年に創業された「ヤマサ醤油」という有名な会社がありますが、この会社の創業者が濱口家で、梧陵は嘉永6(1853)年に7代目の社長になります。
 幕末の切迫した国際情勢に危機感を持った梧陵は、当時の砲術の第一人者であった佐久間象山に師事し、若者の教育が重要だと考え、故郷の広村に「広村稽古場」を開設し、剣道や槍術の鍛錬とともに国学や漢学の教育をする体制を整えます。

 たまたま梧陵が帰郷していた嘉永7(1854)年11月4日に安政東海地震が発生しました。
 地震の後には津波が襲来すると聞いていた梧陵は村人に家財道具を高台に運搬させ、老人、女性、子供は八幡神社に避難させて、そこで村人に食事を提供しました。
 しかし、津波は到来しなかったため、村人も帰宅し一件落着のようでした。
 ところが翌日の11月5日、村人がお世話になった御礼に梧陵の邸宅に三々五々集まってきた午後4時頃に、昨日よりはるかに強烈な地震が襲来しました。安政南海地震です。
 10数分後に最高5メートルの津波を含めて7回も津波が襲来しました。
 梧陵も一度は津波に巻き込まれますが、なんとか高台に流れ着き無事でした。
 そこで直ちに村の中を巡回しようとしますが、流失した家屋が邪魔になって歩くことができないため、八幡神社に戻ります。
 しかし冬ですから、すぐに暗くなって海上に流された村人が方向が分からないのではないかと心配になり、道端に積み上げてあった刈り取った稲に火を放ち目印にします。
 これが有名な「稲叢の火」です。
 その結果、9名は助かりましたが、結果として死者36名、家屋の被害339軒という大被害になりました。

 この話を後で聞いた小泉八雲が明治30(1897)年に出版した本に「ア・リビング・ゴッド(生き神様)」と紹介し、さらに40年後の昭和12(1937)年に、その内容が「小学国語読本」に掲載され、全国に知られるようになりました。
 これが11月5日が「世界津波の日」になった経緯ですが、梧陵が立派なのは、津波の後、家も船も家族も失った村人が離散してしまわないために様々な対策を行ったことです。
 まず、周辺の村から貯蔵米や年貢米を借りて村人に配り、漁船や農具も私費で購入して無償で配布するなどしますが、それだけでは生活できないと、自分で公共事業を開始します。
 国家に依存したのでは時間がかかりすぎ、村人が離散してしまうと判断したからです。
 そこで被災から3ヶ月後に3年かけて海岸に全長650メートルの防潮堤を建設し、毎日500名近い村人を雇用し、その日のうちに日当を支払ったのです。
 延べ5万7000人近くを雇い、現在価格で20億円にもなる私財を投入しました。
 私も見に行きましたが、高さ5メートルの防潮堤が現在も残っています。
 最近は災害が発生すると政府に依頼するのが常識になっていますが、このような自助の精神も11月5日を機会に思い出すべきだと思います。





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