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論文

 先月末に島根県の隠岐島にカヤックに行ってきましたが、素晴らしい島でした。
 まずどのような島かをご紹介したいと思いますが、島根県の沖合70kmほどの日本海にある離島ですが、そこに行く方法は島根半島の日本海に面した側に七類港(しちるいこう)というフェリーが出発する港があり、そこから1日に2便出ているフェリーで行くと約2時間半で到着します。
 また、時期によっては七類港や鳥取県の境港から高速船が出ており、それに乗ると2時間程度で到着ということになります。
 隠岐島は大きく二つの島で構成され、島根半島から遠い方にあるのが島後(どうご)、近い方にあるのが島前(どうぜん)です。
 島後は凸型のほぼ円形をした島ですが、島前は地図で見ると、知夫里(ちぶり)島、西ノ島、中ノ島という3つの島が大きな湾を取囲むような凹型になって、対称的な形をしています。
 いずれも海底火山が隆起して出来たのですが、島前は隆起している途中で中央部分が陥没してカルデラとなり、海水面が上昇したときにカルデラに海水が浸入し、外輪山が3つの島として残ったという経緯によるものです。

 今回は島前の西ノ島に行ってきたのですが、その中央に幅400mほどしかない細くくびれた船越という場所があり、そこからカヤックで島の北側に出て回ってきたのですが、外輪山が日本海の荒波に削られた断崖絶壁の連続で、最も高い断崖は摩天涯といわれ267mもの高さがあり、北海道の知床半島に匹敵する雄大な光景でした。
 この島は日本海にありますから、佐渡島などとともに、江戸時代から明治時代に活躍した北前船(きたまえぶね)の重要な寄港地で、葛飾北斎が文化14(1817)年に刊行した『北斎漫画』に白黒の版画で「隠岐・焚き火の社(たくひのやしろ)」として描かれていますし、嘉永年間(1850年代)に歌川広重が日本各地の名所を紹介した「六十余州名所図絵」にも、北斎の構図を参照して色刷り版画で「隠岐・焚火の社(たくひのやしろ)」として描かれています。
 いずれも2艘の通称千石船と呼ばれる弁才船(べざいぶね)が荒波を蹴立てて西ノ島の沖合を航海している絵です。
 この焚火の社というのは、島前でもっとも高い標高452mの焼火山(たくひやま)にある焼火神社(たくひじんじゃ)のことで、この神社の大灯籠に点火される火が日本海を航海する船にとって灯台の役割をしていたのです。
 そこで航海の守護神として、江戸時代には讃岐の金刀比羅宮と並んで篤く信仰されていたそうです。

 このような島ですから、いろいろな歴史があり、異色なのは流刑地として多くの人が配流されてきたことです。
 日本の律令制度では中国に倣って、近流(こんる)300里、中流(ちゅうる)560里、遠流(おんる)1500里と決められており、近流が越前や安芸、中流が信濃や伊予、遠流が伊豆、安房、佐渡、土佐、薩摩などが流刑地で、隠岐も遠流の場所でした。
 一般に名前が知られている人物では、834年に遣唐副使に任命されたが正使を批判して流罪になった小野篁(おののたかむら)、源義家の次男で略奪をしたり官吏を殺害して流罪になった源義親(みなもとのよしちか)などもいますが、やはり何と言っても名高いのは後鳥羽上皇と後醍醐天皇で、その行在所が現在も史跡として残っています。

 後鳥羽天皇は1183年から1198年まで16年間にわたって在位した第82代天皇ですが、退位後も上皇として23年間も院政を敷いた方です。
 1221(承久3)年に鎌倉幕府の執権北条義時追討の宣言を出し「承久の乱」を起こしますが、幕府軍に完敗し、島前の中ノ島に配流され、その配所で1239年に崩御されています。
 後醍醐天皇は1318年から1339年まで22年間にわたって在位した第96代天皇ですが、鎌倉幕府を倒幕する計画が二度にわたって発覚し、1331年の2度目の「元弘の変」で幕府に逮捕され、翌1332年に西ノ島に配流されます。
 しかし、翌年に島から脱出して足利尊氏の支援により復帰しますが、後に足利尊氏の離反により京都から吉野に脱出し、そこに南朝を開きますが、その吉野で崩御するという波乱の人生を送った天皇です。

 もうひとつ隠岐島で特徴のあるのは、世界で唯一ではないかと思われる「牧畑」という四圃式農法が行われていたことで、これは1188年の『吾妻鏡』にも紹介されている歴史のあるものです。
 今回、西ノ島の断崖の上部を見学してきましたが、狭い丘陵地は放し飼いの牧場になっており、この島でウシが約860頭、ウマが約60頭が飼われています。
 しかし、以前は畑地を4区分し、小麦、大豆、粟などを一年ごとに交替で栽培し、4年目にはウシを放牧して一巡し、土地が痩せるのを防いできたということです。
 ヨーロッパでは中世以後、冬作物、夏作物を交替で栽培し、3年目には休閑地としてウシを放し飼いにする三圃式農業が行われてきましたが、それよりも高度な方法として評価されてきました。
 しかし、交通の便が良くなって本土から安価な作物が入ってきて、農業全体が衰退し、牧畑は1960年頃に無くなり、入会権のある放牧だけが残っているのが現状です。
 今回、島前には初めて行きましたが、大自然がある一方で、今年の6月には横穴墳墓から708年に鋳造された「和同開珎」の銀銭が発掘されるなど、様々な歴史の資産もある興味深い島でした。





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