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論文

 日本はエネルギー自給率が4%、木材自給率が21%、穀物自給率が28%、食糧自給率が39%など、大変に自給率の低い国ですが、それは当然、海外から大量の物資を輸入しているということですし、その購入資金を稼ぐために輸出も盛んだということになります。
 日本は貿易立国という言葉もあるように、貿易に依存して国家が運営されています。
 そして明後日6月28日は「貿易記念日」に制定されているということで、今日は貿易ということについて考えてみたいと思います。
 なぜ6月28日が「貿易記念日」に制定されているかということですが、これは安政5(1858)年6月19日に徳川幕府がアメリカと日米修好通商条約14か条を調印し、続いてロシア、イギリス、フランス、オランダと同じ内容の条約を締結したのですが、その第3条で、下田、函館、横浜、長崎、新潟、兵庫を開港することに決めたという背景があります。
 そして翌年の安政6(1859)年5月28日に徳川幕府はそれらの5カ国に対して、横浜、長崎、函館の3カ所の港を開港すると公布しました。この5月28日は旧暦ですが、新暦に直すと6月28日になるので、1963年に明後日が「貿易記念日」に制定されたということです。

 これは貿易立国の現在としては記念すべき日かもしれませんが、日本にとっては必ずしも喜ぶべきことではありませんでした。
 この開国について、当時のフランスの新聞が以下のような文章を残しています。
 「1858年という年は、世界に対し、ほんの少ししか扉を開いていなかった中国の障壁と、いかなる外国も足を踏み入れることを禁じていた日本の障壁を完全に打ち壊した年になった。(中略)この2つの極東の国を近代文明が征服したことは、われわれの時代の一つの大いなる光栄の証となるだろう」というわけで、世界に勢力を拡張しようとしていた帝国主義国家から見れば、このような見解だったのです。
 そして、この開港の基となった修好通商条約は、先ほどの5カ国に治外法権を認めたとか、関税が不平等であるなど、大変な不平等条約で、この不平等を改めること、すなわち条約改正問題が明治政府の重要な仕事になるほどでした。

 一方、横浜、長崎、函館にとっては、小さな漁村から日本の貿易の拠点になるきっかけとなった大事件で、来年、それぞれの都市で開港150周年記念事業が盛大に行われる予定です。
 一例として、横浜がどれほど急激に変貌したかを紹介してみます。
 開港前、横浜村は砂州の上にできた戸数100戸足らずの半農半漁の寒村で、記録に残っている目立つ出来事は中国に輸出するナマコの生産量が東京湾西海岸の18の村のなかで3位になったという程度のことでした。
 ところが日米修好通商条約で横浜の開港は安政6(1859)年6月2日、新暦で7月1日に決められていたため、大急ぎで港を完成させる必要が生じました。
 しかも場所について、アメリカは東海道の神奈川宿(現在の横浜市神奈川区神奈川本町)を主張したのに対し、徳川幕府は横浜村を主張して合意が得られず、開港まで4ヶ月になった2月の時点で、幕府が強引に横浜村に決めて工事をはじめたのです。
 期日が切迫しているうえに、幕府は資金不足で民間に頼らざるをえず、大桟橋の建設、道路の拡張工事、官舎の建設などを民間に発注して何とか間に合わせ、新暦の7月1日に何とか開港し、横浜が日本最大の都市になる端緒となりました。
 ちなみに横浜市では開港記念日を6月2日としています。これは当初は旧暦で6月2日に行われていたのですが、明治42(1909)年の開港50年祭から新暦の7月1日に移されました。
 ところが、6月2日のほうが市民に親しまれているということと、7月1日は梅雨の季節にかかるということで、昭和3(1928)年から6月2日に戻されて現在に至っているというわけです。

 150年前から始まる日本の貿易の経緯を見てみると、多少の増減はあるものの、統計のある明治元(1868)年から1980年まで日本は輸入超過でした。とりわけ戦後は大幅な輸入超過でしたが、1981年から輸出超過になり、10兆円程度の黒字で続いています。
 その中身も明治初期から戦前までは生糸が輸出の1位で、以下、綿織物や絹織物など繊維産業が輸出を支えてきましたが、戦後になると、1970年代までは鉄鋼、80年代以後は自動車、さらに半導体素子、精密機械、事務用機械が台頭し、産業の潮流の波頭を押さえています。
 このように見てくると「貿易立国・日本」は安泰のようですが、問題がないわけではありません。
 第一はBRICsなどの新興国家に次第に追いつかれつつあることです。
 2003年まで輸出、輸入ともにアメリカ、ドイツに次いで世界3位でしたが、2004年に中国に抜かれ輸出、輸入とも4位になっています。
 また、貿易収支の黒字でも、2000年までは世界の首位でしたが、2001年にドイツに抜かれ、2005年に中国に抜かれ3位に低下しています。

 第二は輸出の内容です。モノから情報へと社会が移行しつつありますが、日本は依然として工業製品というモノで稼ぎ、サービス産業分野の輸出が出遅れています。
 その象徴が観光収入で、日本の海外観光客からの収入は実額でこそ世界9位まで上昇してきましたが、GDPあたりの国際観光収入は世界の最下位に近い状態です。
 もう一点、世界はモノが移動する実体経済と通信で情報が移動することによる仮想経済で構成されていますが、現在では仮想経済が実体経済の10倍以上と推計されています。
 日本は石油取引、穀物取引、株式売買、最近の炭素の排出量取引などの仮想経済では大幅に出遅れており、この分野で力を付けないと、折角、苦労して実体経済の貿易で稼いだ資金を、仮想経済で一瞬にして失うという状況にあります。
 日本の開港150周年記念を来年に控え、貿易立国・日本の見直しが必要だと思います。





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