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論文

 ついに三浦雄一郎さんが世界最高峰のエベレストに最高年齢での登頂に成功されました。おめでとうございます。
 また世界各地で問題になっている北京オリンピックの聖火リレーでは、賛否両論がありましたが、5月8日午前9時17分に中国の登山隊が聖火をエベレストの頂上まで搬送し、エベレストが久々に話題になりました。
 実は今日5月29日は人間が初めてエベレストの頂上まで到達した記念すべき日で、エベレストデーとなっています。
 そこで、その記念日に因んで、世界の最高峰エベレストにまつわる興味ある話をご紹介したいと思います。

 まずエベレストという名前です。言葉の感じでは、「常に」とか「続く」という「ever」という単語に、最大級を示す「est」を合成した言葉のようですが、これは人の名前です。
 古代からサンスクリット語で「神聖な山」という意味の「デヴギリ」と呼ばれていた山が世界最高峰と分かったのは、19世紀中頃で、インドを植民地としていたイギリスのインド測量局の大規模な三角測量の結果でした。
 そのときの測量局局長がサー・ジョージ・エベレスト大佐であり、その名前を採ってマウント・エベレストとしたのです。
 ただし、これは個人の功名心によるものではありません。
 かねてよりエベレスト大佐は、すべての地形に現地の名前を採用するようにと指示していたのですが、部下のアンドリュー・ウォーが尊敬する上司の名前を付けてしまったということです。
 それでは現地の言葉ではどのように呼んでいるかというと、チベット語では「神々の母」を意味する「チョモランマ」、ネパール語では「大空の頭」を意味する「サガルマータ」と呼ばれています。
 2002年に中国政府は「チョモランマ」を国際的な統一名称にすべきであるという主張を発表していますが、ネパールの人々はもちろん、また、中国のチベット侵攻に批判的な人々も否定的です。

 世界最高峰となれば頂上まで到達したいというのが当然の気持ちで、もっとも熱心であったのがイギリスでした。
 その背景には、1909年4月6日にアメリカのロバート・ピアリーが北極点に到達し、1911年12月14日にノルウェーのロアール・アムンセンが南極点に到達しており、大英帝国としては、第三の極点である最高峰には何とかユニオンジャックの国旗を立てたいと思っていたからです。
 そこで1921年に第一次遠征隊、翌年に第二次遠征隊、そして1924年に第三次遠征隊と矢継ぎ早に挑戦します。
 この第三次遠征隊で頂上に向かったのがジェージ・マロリーとアンドリュー・アーヴィンですが、途中で行方不明になってしまいます。
 このとき2人が登頂に成功して下山の途中に滑落して死亡したという説と、登頂には成功しなかったという説がありますが、いまだに結論は出ていません。
 このマロリーはエベレスト登山の資金を集めるために、本国で数多くの講演をしていましたが、そのとき「何故エベレストに登るのか」と質問され、「そこにエベレストがあるからだ(Because it is there)」という有名な言葉を残しています。

 第二次世界大戦が始まり、エベレストへの挑戦は中断しますが、イギリスの執念は強く、1951年に再開し、ついに1953年5月29日11時30分にエドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイが頂上に到達します。
 これは6月4日に行われるエリザベス女王の戴冠式に間にあわせるという使命を帯びていたのですが、無事、その直前に成功し、イギリスは面目を施しました。
 ただし、ヒラリーはニュージーランド人、テンジンは長年ネパール人とされていましたが、実はチベット人であり、イギリスにとっては、やや複雑な成功でした。
 多くの冒険や発明に共通することですが、最初に突破するまでは大変ですが、だれかが一度成功すれば、次々と成功するようになり、1960年には中国人、1963年にはアメリカ人、1970年には植村直己さんと松浦輝夫さんの日本人2人が成功しています。

 エベレストに登るためにはネパール政府に登山料を支払う必要があり、どのルートから登るかによって違いますが、もっとも安いノーマルルートで2万5000ドル(約260万円)になっています。
 それ以外にも登山のためには相当の費用が必要であり、経済的に豊かな国の人々が挑戦し、国別ではシェルパを努めるネパール人は断然の1位ですが、2番目がアメリカ人、3番目が日本人です。
 2000年までに1314人が頂上に立っていましたが、今年の1月には3500人を突破しており、最早、エベレストの登頂に成功したことはニュースにならない時代になってしまいました。

 その一方、登山で使われた資材が膨大なゴミになっていたり、身勝手な登山者も増加して現地でトラブルが起きたりもしています。
 世界で最初に登頂に成功したヒラリーは今年1月8日に88歳で亡くなりました。ニュージーランドでは5ドル札に肖像が描かれているほどの人ですが、亡くなるまで自分とテンジンのどちらが先に頂上に立ったかを明らかにせず、ヒマラヤ基金を創設してネパールを支援するなど、生涯謙虚な人でした。
 そのような人格を磨くためにエベレストに挑戦する時代になってほしいと思います。





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