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論文

 新年あけましておめでとうございます、ということで、我々は1月1日を当然のことのように1年の始まりとして祝っていますが、古今東西を見渡すと、これは必ずしも当然のことではないということを紹介させていただこうと思います。
 まず古代エジプトですが、現在から4700年程前の古王国時代には8月21日が新年の始まりでした。
 何故そのような中途半端な時期にと思われるでしょうが、もちろん理由はあります。
 古代エジプトは1年を「洪水季」「撒種季」「収穫季」という3つに分け、ナイル川が水嵩を増してきたときを生命の息吹をもたらす新年の始まりとしていました。
 ところが当時の観測能力では、氾濫がはじまる時期が予測できないので、星空を観察していた結果、一番明るい星シリウスが夜空に出現する時期と氾濫が始まる時期が一致することを発見し、その日を新年の始まりとしていました。
 ところが、時間とともに気候変動の影響で、シリウスの出現と氾濫の始まりが一致しなくなり、学者が計算し8月21日を洪水季の始まりの日としたというわけです。

 これは2000年以上前までヨーロッパ大陸全体に勢力を拡大していたケルト人の新年にも共通します。
 彼らは1年を家畜を追って生活する「活動期」と、一ケ所に止まる「定住期」に分け、活動期の最初5月1日と定住期の最初11月1日の2回を元日としていました。
 この両日はメーデーとハロウィーンとして西欧社会には現代まで受け継がれています。 
 メーデーというと、1886年にシカゴから始まった労働運動を想い出しますが、古代にケルト民族が行っていた「ベルテネ祭」が起源です。ベルテネは「明るい火」という意味で、ドルイドと呼ばれた僧侶が地面で焚き火を燃やし、その間を家畜が通って放牧を開始する祭でした。
 ハロウィーンは現代でも10月31日に行われていますが、これもケルト民族の「サウィン祭」を起源としています。この夜は死者の霊が家族を訪ね、精霊や魔女が出てくると信じられ、それらから身を守るために仮面を被ったり、焚き火を燃やしたりしたのですが、この日で放牧を終わり、定住生活を始めたのです。

 南米のインカ帝国では太陽の日照時間がもっとも短い冬至が元日とされていましたが、南半球なので6月21日になります。
 帝国の首都クスコでは、すべての火を消して、太陽の熱で新たに火をおこし、再度、町中に火を灯したそうです。
 当然、曇りのときはどうするのだと疑問をもたれると思いますが、そのときには摩擦熱で火をおこしたのですが、それは凶兆とされていました。
 これは現在まで受け継がれ、収穫期の終わった6月24日に10万人以上の人々がクスコのアルマス広場に集まり、インティ・ライミ(太陽の祭)という盛大な祭が行われています。
 冬至を1年の切り替わりの時期にする地域は多く、古代中国でも冬至を一年の終わりと始まりにしていました。

 それでは現在の1月1日はどのようにして始まったかということですが、古代ローマ時代に遡ります。
 古代ローマ時代には紀元前8世紀にロムルス暦が使われはじめたと言われていますが、その時代の人々にとって、1年で重要な時間は穀物や家畜の世話をするときだけで、それ以外のときには日数を計算する必要の無い余った時間だったようです。
 そのため冬の間の2ヶ月間は日付さえもなく、新年は春分の日前後の新月の日という曖昧な太陰暦でした。
 ところが紀元前153年に、ローマ共和国で、それまでの太陰暦から太陽暦に変えようということになり、冬至を過ぎてから、最初に西の空に三日月が観察された日を一年の始まりとすることに決めました。
 そこに登場したのがユリウス・カエサルで、紀元前45年に太陽暦を採用し、1年を365日、4年に1度は366日とし、春分の日の3月25日を元日にしました。
 しかし、この計算では4年で44分の誤差があり、16世紀には春分の日が2週間も前にずれてしまっていました。
 そこでグレゴリオ13世が、まず1582年の10月4日(木)の次を一気に10月15日(金)として10日間を飛ばして、約1600年間に積もった誤差を解消し、今後は4で割り切れる年は閏年、ただし100で割り切れる年は閏年とせず、さらに400で割り切れる年は閏年とするという規則で調整することにし、同時に3月25日であった新年を1月1日にして、現在に至ったというわけです。

 しかし、カソリック教会が定めたということで、イタリア、スペイン、ポルトガルなどは1582年10月15日から採用していますが、プロテスタントを信じる国々では抵抗が多く、イギリスでは1753年、170年後まで3月25日を元日としていました。

 最後は日本ですが、伝統的に月の満ち欠けによる太陰暦を使っており、正月は立春の15日後の「雨水」という24節季の直前の一日とされており、新暦に換算すると1月22日から2月19日の間を移動していました。
 しかし、明治5(1872)年に太陽暦の採用を布告し、12月3日を明治6(1973)年1月1日にして、1ヶ月飛ばして現在に至っています。
 これには裏話があり、明治6年は閏年で、官吏の給料を13ヶ月支払わねばならず、財政逼迫の明治政府には頭の痛い課題だったのですが、12ヶ月で良くなったうえに、明治5年の12月は2日しか無いので、12月分の給与を支払わず、一石二鳥の効果を狙ったものです。
 農業社会では暦は季節を反映したものでしたが、温室でトマトやキュウリが栽培される時代には、暦に季節感がないのも仕方がないと思います。
 しかし、環境問題が重要になった現在、自然を反映した旧暦を振り返ってみるのも意味があると思います。





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