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論文

 カヤック、スキー、登山、乗馬などのため、北海道によく出かけますが、今日はその北海道に縁の深い松浦武四郎という探検家について紹介させていただこうと思います。
 近世の三重県の生んだ三大偉人といわれるのは俳諧の松尾芭蕉、国学の本居宣長、そして松浦武四郎ですが、前の2人に比べると、あまり知られていないので、ぜひご紹介させていただければと思います。

 江戸時代には蝦夷地と言われていた島を北海道と命名する提言をしたことで知られています。
 三重県の現在は松阪市に合併された三雲村という場所に生まれたのですが、10代の後半から全国を行脚しはじめ、生涯のほとんどを旅行していた旅人です。
 最初は四国、中国、九州と西国を旅行していたのですが、20代中頃に長崎で蝦夷地や千島列島にロシア人が頻繁に到来しているという情報を入手し、突然、蝦夷地を目指すようになりました。
 当時の蝦夷地はロシアの脅威もありましたし、倒幕を目指していた反政府の政治犯が逃げ込んだりしており、津軽海峡を渡るのは容易ではなかったのですが、160年前の1845年の4月に蝦夷地に渡ります
 松浦武四郎は江戸時代末期に個人で3度、徳川幕府の依頼で3度、合計6度も蝦夷地を詳細に調査しています。
 現在のように道路があり、鉄道があり、飛行機もある時代でも北海道を隈なく回るというのは大変なことですが、アイヌの人々が通っていた川沿いの道くらいしかない時代には冒険とか探検という言葉にふさわしい旅行だったと思います。

 一例として、当時「後方羊蹄(シリベシ)山」といわれた現在の羊蹄山に1月から2月の厳冬期に登山していますが、その日誌を読むと、雪を溶かしてお粥を作り、テンを捕まえて焼いて食べ、大木が寒さのために割れて、その音で一晩中眠れず、山を下るときはお尻の下に蓆(ムシロ)を敷いて凍った雪の上を滑り降りて来たという状態でした。
 現在でも、秋の羊蹄山で遭難する人もいるほどの山ですから、それほどの装備もなく地図もない時代の真冬によく無事だったと思うほどです。

 そのような苦労をして、6回の探検の成果を、徳川幕府の要請によって地図にまとめた「東西蝦夷山川地理取調図」という地図を作製しています。全体の輪郭は伊能忠敬の測量図によっていますが、内部の川や湖や山を克明に書き記したものです。
 緯度・軽度1度ずつで一枚にした26枚の地図からなっていますが、全体を貼り合わせると2・4m×3・6mほどで、縮尺では25万分の1程度になる巨大な地図です。
 札幌に赤煉瓦庁舎といわれる観光名所になっている建物がありますが、その1階にある北海道立文書館の入口に、その地図の複製が掲げられているので、ときどき見に行くのですが、感嘆することがあります。
 地図の何処を探しても直線が一本もなく、すべて曲線ということです。どの川もうねうねと蛇行していますし、湖も海岸線もすべて曲線なのです。
 地図に直線が登場するのは明治以後の開拓によってですが、例えば、現在の石狩川は全長270km 程度ですが、明治以前は370kmもありました。150年間で次々と運河を掘って100kmも短縮してきたのです。

 そのような状態のなかで、日本では「過去に損なわれた生態系その他の自然環境を取り戻すことを目的」とした「自然再生推進法」が2002年12月に制定され、かつて開発した自然環境を以前の状態に戻そうという公共事業が始まりつつあります。
 第一号として2003年11月に「釧路湿原自然再生協議会」が設立されて、干拓された釧路湿原を復元する計画を検討しています。
 それは無駄な公共事業という意見もありますが、人間の生活の基礎が自然環境にあると考えれば、それを正常な状態に戻すというのは意味のあることであり、日本だけではなく、世界各地で始まっています。

 そのときに、どのような自然に戻すのかということが重要になりますが、松浦武四郎の北海道地図のように、人間が本格的な開発をする以前について詳細な地図が残されていることは、大変に重要なことです。
 松浦武四郎は明治になって政府の高官に任命されていますが、明治政府の北海道開発政策に反対し、1年もたたないうちに辞職してしまいました。そのために明治以来、評価されていないのですが、環境問題が世界の関心事になってきた現在、もう一度、再評価されるべきではないかと思い、紹介させていただいた次第です。





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