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論文

 学生とカラオケへ行くと、学生の歌う歌がチンプンカンプンで聞いたことのない歌ばかりです。白けていると、学生が先生でも知っている歌を歌いますといってサービスしてくれるのですが、これもまた聞いたことのない歌ばかりです。
 オリコンが作成した、戦後の日本のヒット曲のベスト100のシングルレコード(CD)の表を見ると、一番が「およげ!たいやきくん」で455万枚、二位が「女のみち」の326万枚、三位が「だんご三兄弟」の292万枚となっています。この上位三位は、私などの年齢にも馴染みがあるのですが、四位以降になると、知らない曲が続々と登場します。四位が「TSUMANI」、五位が「君がいるだけで」、六位が「SAY YES」という具合です。
 そこで、百位までに演歌が何曲あるかを探してみますと、2位の「女のみち」(宮史郎とぴんからトリオ)、23位の「なみだの操」(殿さまキングス)、34位の「夢追い酒」(渥美二郎)、42位の「星影のワルツ」(千昌夫)、71位の「うそ」(中条きよし)、75位の「奥飛騨慕情」(竜鉄也)、86位の「北の宿から」(都はるみ)、97位の「おもいで酒」(小林幸子)の8曲だけです。比率では8%ですが、売上枚数では1%強でしかありません。
 アルバムになると壊滅状態で、100位のなかには演歌のアルバムは1枚もないだけではなく、題名が日本語のものが27位の「深海」(Mr.Children)、47位の「勝訴ストリップ」(椎名林檎)など、12曲しかなく、他はすべてローマ字の題名ばかりです。

 この原因は130年近く遡った明治8年以来の教育にあると思います。
 明治8年に文部省から伊沢修二、高嶺秀夫、神津専三郎という三人の役人がアメリカへ派遣されました。目的は師範学科取調ということですが、簡単に言えば、日本の音楽教育で教える内容を邦楽にするか洋楽にするかのための調査です。
 様々な議論がありましたが、結局、洋楽を中心にするという結論になり、明治20年に東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)が設立されますが、邦楽は除外されてしまい、それ以来、邦楽はお稽古事になってしまったのです。昭和11年には邦楽の教育もおこなわれるようになったのですが、東京音楽学校に邦楽科が設置されたのは戦後の昭和24年のことです。

 これには面白いエピソードがあります。神津専三郎は信州生まれの人ですが、実は音楽家の神津善行さんの先祖です。
 以前、神津さんにお目にかかったときに、その話をしたら「自分の祖先だけれど、邦楽を衰退させる原因を作ったのは残念だと以前から思っている」と言っておられました。
 神津さんは1980年代に世界各国の民族音楽の調査をされたときに、学校で自国の音楽を教えていないのは日本だけだと気付き、しかも、その原因が自分の祖先にあるということを大変に残念に思い、1993年に邦楽の復活のために「六華仙」という女性8人の邦楽演奏グループを結成し、自分で作曲した邦楽の演奏会を各地で開催されています。
 その演奏会は夫人の中村メイコさん、子供の神津カンナさん、神津はづきさんなど、神津一家総出で支援しておられます。
 明治初期に「脱亜入欧」とか「文明開化」など、当時の先進国であったヨーロッパ諸国やアメリカを追いかけた時代の名残ですが、ここまで日本の音楽が衰退してしまうと、やはり「日本 百年の転換戦略」が必要ではないかと思います。





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